むむちゃんの散歩道

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ジェンダー論を語らない。男と女、どっちに生まれたい?

「男と女、どっちに生まれたい?」
と、むむちゃんが問う。

小中高大生くらいまでのあいだよくのぼった質問だったなぁ。
大人になってからは、久しぶりで新鮮だ。

私は男に生まれたいと思ったことは、無い。
いや、小学生のころに少しばかりそう思ったことがあったかもしれない。

べたべたつるむ女の子同士、、、みたいなのに同調するのが苦手だった、というのが、唯一の理由。

意識がはっきりしてからは、女の性を全面的に受け入れている。

だってね、運動苦手なんだもの。男の子は運動できてなんぼっていうところがあるでしょ。

だってね、家庭を支える大黒柱になんてなりたくない。
家族のために稼ぐ人にも、世帯主にも、家長にも、なりたくない。
もっと言うなら、稼ぐためにせっせと働く人生を送りたくない。
そういうの、私、ちっとも向いてないし、希望もしないから。
仕事バリバリな人生じゃなくって、おうちでの生活を豊かに充実させることを優先にしたいから。

そう、思っていた。

今のわたくしは、堂々たる世帯主であり、子ども二人と自らを、自らの稼ぎによって養っている。
望む望まずにかかわらず、その状況が差し迫って訪れれば、人はどうにでもなれる。
そして、あれこれの経験を経て、他者を主として、それにぶら下がるように生活することが向いてないこともわかった。


そして、そうでは、あるけれど、私は男には生まれたくないのだ。

だってね、生まれながらに、世の中は
「おのこ」を稼ぎ頭として見立てるではないか。
家族をうんとこしょと支える役割を、成人した「おのこ」に見るではないか。
そういう期待をね、背負いたくないのです。

つまるところ、世の男たちは気の毒である。
むむちゃんの問いを前にして、つくづくとそう思った。


女に生まれて良かった。
家族への責任を背負うか背負わないか、そもそも期待されない中で、
私は背負うことを選択したのである。
選択できる自由だけは、あったのである。
(自由とは気持ちの上のことであり、経済的には背負わなければ成り立たなかったのが事実ではあるが)



むむちゃんも、ぷうちゃんも、自分だけをひとまず背負えるオトナになれば良い。
そしてちゃんと自分のことは自分で背負える人(自分を食わせるだけの稼ぎができるだけじゃなくって、自分自身の生活(衣食住)をできる人)と出会い一緒に生きてもいいかと思えば、一緒に生きればいい。

むむちゃんに家長になることを期待することは無くていられるのだけれど、
ぷうちゃんにはうっかりするとうっかりしてしまいそうなので、
すごくすごうく、しっかりと、自らに戒めておかなくっちゃなぁ、と思う。


いずれの日にか、「次は男に生まれてみてもいいかな」とも思ってみたいものだが、
あと50年くらい生きてみても、無理だろうなーーー。


そうそう、男社会に依然としてあるのかどうか、死語であってくれたらいいなって思うけど「飲みにケーション」ってやつも苦手。飲む飲まない関係なく、そも夜の外食外出が好きじゃ無い。
子どもたちが居てお断りせざるを得ない今を、むしろありがたいって思ってる。


# by shiho_kato | 2018-01-18 18:26 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

田奈高校図書館のぴっかりカフェと、学校図書館と子どもの貧困

田奈高校の図書館で行われている「ぴっかりカフェ」 の試み、
ここ数年、お訪ねしたいものだと思いながら、機会を逃している。

ぴっかりカフェについて、かいつまんで言うと、
図書館の一角で、週に1度、飲んだり食べたりおしゃべりできるスペースを設け、
学校の先生ではないオトナ(司書と、NPOパノラマのスタッフやボランティアさん)が、
カフェ風の場をひらく試み。

本を媒介にする、という言い方はよくあるけれど、
図書館そのものを媒介にして、外の風を取り入れる試み。


いま、子ども食堂とか、無料学習塾の活動とか、様々な背景や困難を抱える子どもに「リーチする活動」を地域で行う視点はずいぶんと広がりを持ってきたけれど、「そこに行く」場を移すことへの子どもたちのハードルは大きい。
(子どもの支援でも、どんな支援活動でも、必要な人に手を伸ばし手が届くところが一番難しい)

日常の中に溶け込むように、行われることがベストだと思っていたところで、
学校の中にある図書館で、「リーチする活動」を行うなんて理想的だと思ったんだ。


3学期がはじまって間もなく、そのぴっかりカフェについて、にわかに賛否両論の議論が始まっていた。

ぴっかりカフェの可否、是非は、田奈高校の生徒が決めることで、
生徒では無い人たちの意見など、耳を貸さなくて結構と思っている。

それは他の学校図書館にも言える。
その学校図書館の可否、是非は、その学校の現在所属している教員、生徒が決めることで、
それ以外の人たちの意見は、あくまで参考に過ぎない。

その立場から見ると、ぴっかりカフェの試みがこれだけ続いてきていてこれだけ集まってくる生徒が居る。
それそのものが「評価」とみるべきだ。

そして、ぴっかりカフェ云々ではなくって、図書館のヘビーユーザーであり、
誰かとつるんで図書館を利用したいとは決して思わない、一人の時間を邪魔するな、と思いながら図書館を利用してきた私としては、ぴっかりカフェのような活動を、「邪魔」とは思わない。

光が強いと、影も濃くなる。
ぴっかりカフェのような光る場所があれば、こっそり過ごせる影の場所のこっそり度もあがるんだ。

みなの注意を集めてくれる場所があれば、みなの視線が向かない場所もまたしっかりと確かなものになる。

もしも私が田奈高校の高校生だったとしたら、週に一度の「ぴっかりカフェ」の日は、
こっそり隅っこに忍びこみ、誰も私に注目することが無いことに他の日以上に安心しながら、
カフェに集まる人たちの様を耳ダンボで観察しつつ自分の世界に没頭するに違いない。


ひとりを愛する人間にとって、最もジャマくさいのは、
「ひとりで居る」ことを見られる眼差しであり、声を掛けられるかもしれない恐怖である。

今、私は生徒ではなく大人で、図書館の番人のような仕事を数年に渡ってしてきているからわかるんだけれど、
大人という生き物は、「声をかけない」で見守ることができる。
どうか、邪魔くさい視線を感じませんように、どうか、声を掛けられるかもしれない恐怖を感じませんように、
と、息を殺しながら、そうではない生徒とは和やかにおしゃべりをする努力をできるんだ。

田奈高校の司書さんは、私なんかよりもずっと感度のいい立ち回りのよい方に違いない。


そんな私の邂逅や理解やらは、やっぱり横に置いて、
田奈高校のことは、田奈高校に任せよ。



そして、もひとつ、付け加えておきたい。

「ぴっかりカフェ」の試みは、どこの学校図書館でも行えるものではなく、必要性のあるものでも無い。
ある学校においては、図書館以外の場所のほうがふさわしい場合もあり、
ある学校においては、学内に必要ですらない場合もある。
また、カフェ型じゃない試み方で、実施されている学校図書館もあるだろう。

簡単に真似られるものではないんだ。


このところ、子どもの貧困への注目がにわかに集まり(にわかにと言っても、もう10年近く続いているので、いっときのブームに終わるということが無くて良かったと思う)所得格差や教育格差への関心が深まる中、
学校図書館が子どもの貧困に資することがあるのではないか、と、熱く語る方々もいる。

私は、にわか熱に浮かされる人たちが苦手だ。
浮かされた人たちの弁舌の中身以上に、その熱量が危険だ。
大事なことは、冷えた頭で考えるべきだと思うから。
そして、私自身が、うっかり、カーっと熱を上げダーッと突っ走ってしまう体質であることを知っているから。

なので、いま、周囲ににわかに増えている「学校図書館と子どもの貧困」の言説に、警戒心でいっぱいなのである。


うっかり間違えて欲しくないのは、
学力をあげる「ため」に、図書館はあるのではない。
学力が高い子どもを育てる「ため」に、図書館はあるのではない。
子どもたちが「面白い」に出会える場としてあるのである。

それは、どの子どもたちにも等しく、たとえ学力が劣り、家庭的に問題があり、経済的に低所得の家庭の子どもであっても、「面白い」に出会えることが、何にも増して優先される。
家庭に問題があるから、学力が追い付いていないから、この格差を埋めるために「図書館でもその手助けを」と思ってしまったら、間違いだ。

家庭に問題があろうが、学力に問題があろうが、経済的に困難を抱えていようが、
「わ、何、これ、面白い!!」と、思えるものと出会うことを保障することが、
学校図書館の第一義だと考える。

憲法に「文化的最低限度の生活」と書かれている。
この「文化的」が生きるうえでの底力(底辺を支える力)だからだ。


私の短い司書歴でははかれないけれど、きっとそれは、格差の問題が今のように社会問題として取り上げられる以前からの、長きにわたる学校図書館の使命では無かったか?
要するに、かつてからの使命を、きっちりと、どの子にも果たすこと。それだけなんだ。

そのために必要なのは、安心と安全。
そして自由の保障。

ここは安全な場所といえる空間をどう作れるか、
ここに来れば安心よというメッセージをどう届けられるか。

そのうえで、何か支援ができるのだとしたら、
その子の身近に、安心できる場を探すこと、安全を確保する方法を知ること、
その子を不自由にしいてる呪縛から解かれるためのヒントを探すこと。

学力云々につながる「読む力を」なんて言うのは、そのさらにずっとずっと先のお話。



ちんたら書き継いでいたら、ぴっかりカフェを運営しているNPOパノラマから、
1月17日に声明(?)が出されましたので、リンク追加しました。


# by shiho_kato | 2018-01-16 18:49 | 私ノート | Comments(0)

書初めと初詣

今年も、わが家の初詣は4日。

いつもは午前中に初詣、午後に書初めをする。
今年は午前中に書初め、午後に初詣にした。

ぷうちゃん、むむちゃんは、まずは宿題の書初めを。
筆に慣れる時間と、工夫を凝らす時間と。

筆を使う良さは、太く、大きく、のびのびと書けること。
太く、大きく、のびのび書けば、上手に見えるのが筆書きの良さなんだ。
その楽しさを身体で知ってほしいので、「もっと太く、もっと大きく書こうよ~」と声をかけながら、
誰より私自身が、太く、大きく、書くことを楽しむ。
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宿題の字を終えたら、各々好きな言葉を書く。

むむちゃんは、昨年後半から「嵐」がマイブーム。
半紙に「嵐」と書く。
一文字だから、なおいっそう、太く大きくだ。
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ぷうちゃんも、書初め用紙に「二宮和也」と書く。
ふたりして嵐嵐だ。
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私は、「笑門来福」と書きかけて、あれこれ4字を組み変えて

「笑楽喜生」笑い、楽しみ、生きるを喜ぶ

で、仕上げる。
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むむちゃんに、「目標達成できてないなら、今年も書いたほうがいいよ」と言われて
「切三時間二十五分」と書いてみる。
目指せあと3分。ストイックに目指すつもりは無いから、一生懸命楽しんで走って、結果的についてきたらいいなぁ。

お昼を過ぎる時間まで、たっぷり書くことを楽しんだ。
カレーチャーハンを食べて初詣へ。

自転車を使っても坂道の洗礼を受けることになるので、今年はてくてく歩き。

とってもいいお天気。
青空のもと、3人でしりとりをしながら歩く。
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元日には列をなしていた参拝客も、今日は無し。
スムーズに本殿でお詣りできた。

おみくじを引く。
せーので、見せ合うと。
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3人そろって「吉」!!
去年とおんなじだ。

むむちゃんは7番、ぷうちゃんは24番、私は4番。
それぞれ好きな数字を引いて、「吉」とは幸先良いね。


これは持ち帰ろうね。
ルンルンしながら、お待ちかねのチョコバナナ。
ルーレットとじゃんけんを選べたので、じゃんけん。
じゃんけんに勝てば二本。あいこや負けだと一本。

じゃんけんに強いぷぅちゃんが挑むも、あいこ。
続いてむむちゃんが挑むも、あいこ。

あいこじゃなくって、勝ちか、負けかだったら良かったのになぁ。
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梅の花も咲き始めている。
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さぁ一年、始まるね。
どうぞ仲良く、健康で過ごせますように。


# by shiho_kato | 2018-01-04 18:46 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

ゴッホ展 巡りゆく日本の夢@東京都美術館

年末に北斎展を観に行き、年明けにゴッホ展へ。

原田マハの『たゆたえども沈まず』は、ゴッホと浮世絵の出会いを描いた小説なので、こちらが本道。

小説をなぞるように、登場人物たちを思い起こしながら観ていく。
耳を澄ませると、「出てきたあの人って、この人かな」「この人、あぁなっちゃったのって本当かな」
おそらく同じく原田マハの小説に誘われてしまった人たちが少なからず居る模様。

先に北斎展で、浮世絵が西洋美術に及ぼしたチカラをしっかり学習していたから、
ゴッホや、その周辺の人たちにどう影響を及ぼしたかの背景がすんなり入る。

そのうえで、画面を分断する構図や、強弱の強い遠近法や、、、そういった画風そのものの解析についても、ふむふむと理解することができた。


何かの折にテレビで、ゴッホのデッサンに色を付けて「ゴッホの作品」として復元(創造)する試みを日本の女性画家古賀陽子さんが挑戦するというドキュメンタリーを観た。
その時に復元した作品も展示されていて、目にすることができた。
(この展覧会のために行われた復元プロジェクトだったことを後で知る)

素人目には、もうちょっとくすんだ明るさが欲しいような気もしたけれど、面白い試みだと思う。



ゴッホ展の帰り道、北斎展の前を通り、日本は良いなぁ。
私は和ものが好きだなぁと、あらためて思う。

なんだかうかつにそう思ってしまうと、悪いナショナリズムというのか国粋主義というのか、「美しい国」めいたものに、一片の加担をしてしまいそうで、沈黙に封じ込める。窮屈で息苦しい。
この国はステキだとやすやすと誇るわけにはいかないトラップを国を牽引するはずの政治家たちが作り出しているなんて、まったくおかしな国だ。




お正月休み。
たまには、映画を観に行こうかな(「否定と肯定」か「ギフテッド」)、、、、と迷ったけれど、時間にふりまわされずに訪れることができる美術館歩きはなかなかに良かったでした。


ひと月に一度とは言わないまでも、今年はもちょっと回数多くふらっと立ち寄りたい。

美術館は中学生までは観覧無料。
むむちゃんはかるた三昧だし、ぷうちゃんが付き合ってくれるかどうか誘うのが難しいけれど、本物を近くに感じる機会を今年はもちょっと持てたらいいなぁとも、思う。
# by shiho_kato | 2018-01-02 23:05 | 読書ノート | Comments(1)

初日の出、初走り

初日の出は、ふるさとの浜辺公園で見る。
ふるさとでも何でも無いし、埋め立てられた人口の砂浜だし、海からではなく建物の上からあがる日の出ではあるけれど。
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4年続けて、ここで日の出を見続けていたら、ふるさとっぽく感じられるようになってきた。

甘酒と、お汁粉が、毎年交互に振舞われる。
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今年はお汁粉だった。来年はきっと甘酒だ。
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この砂浜はオリンピックのビーチバレーの会場になるらしい。
にわかに整備され、キレイになっていて驚く。

一宮の海岸も、オリンピックのサーフィンの会場になる。


日の出を見たら、さささっと帰って、ニューイヤー駅伝の始まりを横目で見ながら、
お雑煮と、お煮しめと、黒豆と、栗きんとんと、伊達巻きと、かまぼこを食べる。
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伊達巻きとかまぼこ以外は自分で作った。(黒豆は父の手作り、栗きんとんはマサさんの手作り)
来年は伊達巻きも作って、田作りを復活させて、作れないものは食べないことにするのもありかもしれない。
品数はこのくらいあれば十分なのだから。

ニューイヤー駅伝はしっかり録画して、
多摩川へ向かう。


「元旦初走り多摩川堤健康マラソン」
これも連続3年目で、その前を入れると4度目の参加。

新年早々。

と言えば聞こえが良いけれど、昨日も走り納めとか言って走り、今日も走り。
お休みだから、せっせと走る距離を稼いでいる。

10㎞のレース。
男性40代以下と、女性+男性50代以上と、スタート時間が分けられている。
前者は10時、後者は11時20分。
それほどの参加人数では無いのに。
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年齢とジェンダーで差別されているようで、腹を立てたこともあるけれど、
はじめにマサさんを応援し、あとで応援してもらえるのだと思えば、分かれていてもまぁいいか、という気に年々なってきた。

いいお天気で、遠くに富士山をのぞめる。
コースは土手下だから、走りながら見える区間は短い。
土手上からだと、しっかりのぞめる。
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マサさんは4位、私は2位。
大したタイムでは無いけれど、新年の初、と冠すれば、なんでもおめでたい気分になる。
たくさん「おめでとう」の言葉をもらえてうれしい。
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去年は故障に泣いた。
今年は、無理しない、けがしない、体調崩さないで、コツコツ一年通して走り続けることができたらいいなぁと思う。

終わってから、ご褒美にコメダ珈琲。
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そして、池上七福神をぐるりと巡り、
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最後に池上本門寺で手を合わせた。
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また一年が始まる。








# by shiho_kato | 2018-01-01 16:40 | マラソン、かるたノート | Comments(0)