むむちゃんの散歩道

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内田樹の研究室ブログより。村上春樹のノーベル文学賞予定稿に思う。古典文学研究挫折者として。

私はなぜか、村上春樹の作品が好きなのです。
いちばん、遠いところに身を置きたくなる小説ばかりなのに。

その理由がなんなのか、なんだか、内田樹の研究室ブログを読んでわかった気がします。

すべての人は「私の人生の中では私が主人公」という某さだまさしの歌との出会いにはじまり、私にとって、人が自らの物語をいかに物語として成立させんとして生きられるのか、に根源的な関心があったのだと、今になって思います。

その後、河合隼雄の『物語を物語る』に魅せられて、文学を研究することは生きることを研究することに等しい、と踏み、その謎かけの答を自らの言葉で語れるまで追及していこうと挑んだ10代の私がいます。


そして、それに飽き足らず、自らの人生の主人公として物語を構築していくかのように生きることを選び続けている私が、今ここにいます。

ここで私の言う物語とは=ファンタジーにより近いものです。リアルな現実の中でファンタジーの主人公になるには、不思議少女(すみません少女では無いです)と化すしかないではないか、とも言えるのだけれど、でも未来がわからない中を歩むのは、ファンタジーを生きるのと大して変わりはありません。

もちろん内田のうっちー先生がそんな私の浅薄な言葉と同じことを表現しているわけではないです。
が、古典文学から今に至るまで一貫して流れている、人はいかに生きるか、あるいはいかに生きたかを、常に常に繰り返し、とても似かよったコンテキストにわずかずつ自らの言葉をつけ足して語りあげながら(それも1人ではなく多数のものたちが)自らの人生の物語を構築していきます。
総体として、時代というものを象徴していく代表的な物語は、そうやって語り継がれて残されてきて、残すことが目的ではなく、語ることが、おのずと語り継ぐことになり、おのずと残ってきたのが、目の前にうずたかく積まれた古典文学たちの魂なのだと思ったわけです。

『1Q84』は、やっぱり読んでみようかな、と思いました。

『海辺のカフカ』は大好きなんだけど。ちょっと間が空いたからつまらなくなっていたらどうしようと思うと手が出なかったりもする。

あぁ、長くなってしまってごめんなさい。ちょっと別の宿題の原稿を書きながら思っていたようなこととおんなじような内容に遭遇してしまったので、これも磁場の力か?と。

……………
http://blog.tatsuru.com/2010/10/08_0803.php
村上春樹の世界性を担保しているのは、彼が「グローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性」のようなものを達者な筆致で描いているからではない(そのようなものはわずかの賞味期限ののちに「歴史のゴミ箱」に投じられるだろう)。そうではなくて、この作家が「私たちはなぜ物語を必要としているのか」という根源的な、ほとんど太古的な問いをまっすぐに引き受けているからである。人間が人間であるためには物語が語られなければならない。このことを村上春樹ほど真率に信じている作家は稀有である。
by shiho_kato | 2010-10-09 23:40 | ありがとノート