何かがつかえている感じが続いて、心閉ざす日々に困っています。
今後のために、そして同じようなつかえを感じてるかもしれない、
どこかの誰かのために、
自らの扉をえいやっと開いてしまうために、
書いてみようと思います。
今、私が見つけられた胸のつかえの小さなかたまりは三つです。
一つ目は、水のこと。
原発関係の放射能、野菜に続き水に及びました。
予測できないことばかりが、
立て続けにおこることの不安。
でも、私はまだ防衛のためにチョイスできる環境にいます。
そんなチョイスができない環境にいる人たちのことに
思いを馳せながら、自らの子どものことを案じてしまう自らへの
言いようのない、感情。
二つ目は、子どものこと。
水のことを含め、たぶん、自らに子どもがいなかったなら、
こんなにも案じなかったかもしれない、ことが続いて起こります。
私は子どもに関わる活動をしてきましたが、
もしかしたら、広く子どもを見る視点、
根っこにはなかったんじゃないか、という気持ちになってる。
三つ目は、それら含め自らの生を受け入れること。
たまたまこの時代にこうして生まれて、この瞬間に、
ひとりの母親として、ひとりの人間として、身を置いたことは、
選ぶも選ばないもなく、さだめとか、宿命とか、
そういうたぐいのもののカテゴリーに属すもの。
それを素直に受け入れ、一つ目や二つ目のことも含め
矛盾する心模様を含め、そっと心を澄ませていくことに、
思いを傾けられたら、それでいい。それがいい。
なのに、そう願いながら
それに抗おうとしている。
津波に一切合財を流されることをさだめとか、宿命とか、
言ってしまえない気持ちと同じ地平に立ちたくて。
書きながら、阪神のときにも、同じような抵抗をしたのを、思い出している。
自身に苛立ち、自らに翻弄されている。
これも、「ギルティショック」の一部、なのだろうか。