私の名は、
父の気の迷いによっては「いのり」と命名されていたかもしれない。
気が迷わなくて良かった。
けれど、祈ることについての祈り力には、ほんのすこし自負するものがある。
力づくで手繰り寄せようとする願掛けとはちがう、
むしろ想いを、おもいっきりえいやっっとぶん投げる感じ。
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とか思っていたら、
またしても内田樹氏に書かれてしまったのでした。
すばらしく素晴らしい文章で。
内田樹の研究室ブログ「祈りと想像力」
http://blog.tatsuru.com/2011/06/18_1251.php
「祈り」の話をしていたのである。
祈りは、遠いものをめざす。
ふつうは現実の目の前には存在しないものをめざす。
私たちは死者を鎮魂するために祈り、
未来に実現してほしいことを祈り、
つねに今ここにはいない「遠くのもの」をめざして祈る。
祈りを向ける対象が「遠ければ遠いほど」、
私たちが祈りを通じて経験するものは深まり、広がる。
多くの人が勘違いしているが、
祈りの強度は「切実さ」によるのではない。
それがめざすものの「遠さ」によって祈りは強まり、
祈る人間を強めるのである。
だから、おのれの幸福を願う祈りよりも、
他者の幸福を願う祈りの方が強度が高く、
明日の繁栄を願う祈りよりも、
百年後の繁栄を願う祈りの方が強度が高いのである。
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祈ることならできる、いくらでも。
だから、祈ろう、毎日、できるときに、できるかぎり。