むむちゃんの散歩道

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バイブルと出会ってしめくくる10月 鈴木啓嗣「子どものための小さな援助論』日本評論社2011.6.25

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一日終わった〜、お疲れさま、の、気分で地下鉄に座り開いた一冊。

ぐいっと引きこまれて、身動きがとれなくなる。


思春期外来を担当していて、自らクリニックを開院された
精神科医の鈴木啓嗣さん。

専門家の立場から、自らの足元を問う
援助ってなんなのか。
とりわけ専門家がする援助とは。

鈴木さんは書く。
援助(の関係)は日常の中にある。
専門家の援助は日常の外にあり、専門性といわれるもののストライクゾーンは
そもそもとても狭いところでしかなく、
かつ専門性を追求する専門家集団はより狭いところのスキルを
開発し高めようとする。
総体としての「ひとり」は日常の多岐にわたる関係性の中にあり、
そこのごく一部にしかない専門家の援助は、
日常への関わりに小さな力しかもてぬこと、
診療室での援助が時に治療者と患者の二者関係の力関係に誘導されて成り立つことを
忘れがちであり、そこを忘れることが日常に戻っていく際には大きな負になること。

そのようなことを、もう少し、難しい言葉で表現している。

専門家が専門性を否定し、日常の日々の暮らしに目を向けよ、
と、きっぱりと伝える。

自身の立ち所を常に疑い続けることは、
自らの安心、安住を妨げる。
それでも、なお、そう書かざるを得ない、
自らに問わざるを得ない、ごまかしのない厳しさを
ズンと感じた。

あぁ、私はこの本をバイブルとして、きっとずっと、繰り返し読み続けるだろう。
初めの10頁まで読んで、確信した。
ずいぶんとたくさんの本を読んできたけれど、
これほどまで重たく手放せなくなると感じる本とは
人生の中でまだ3冊も出会っていない。

私の言葉では、上手に伝えきれない。
子どもに関わる人、
支援とか援助職と言われる職についている人、活動に携わる人、
ややもすると陥る危険性のあるところを、
しっかりとブレーキをかけてくれる本です。

そして、子どもへの、というよりも、人への寄り添い、の姿勢を
ガツンと示してくれる本です。

同じような警告を発するメッセージは、
他でも触れる機会は多々あったけれど、
それらとは、何かが違う。

どういったらいいのか、自らへの厳しさに身を痛めながら、
それでも、その痛みの中に身を置くことを、
選び直していいるからなのだろうか。

援助に携わることに対する戒めを
ここまでえぐるように記した本とは、いまだ出会っていません。

文章が少し難しいかもしれない。
だけれど、願わくは
子どもに関わる場に居る人、
支援援助にたずさわる場に居る人には読んでほしい。

できれば、一度は読んでほしい。
できれば、この本だけは読んでほしい。
はじめの70頁まででいい、読んでほしい。
そう願いたくなる、一冊です。

**********
これほどまでに、重く手のひらに残るのは、
かねてからずっと、抱え続けてきた
私自身の命題に答をくれたからだと、気づいている。

日々の暮らしの中で、
生きる苦しさを抱えている子どもたち、人たちと出会い、
支え合う関係に身を置きたい、と願っている。
特別な場、ではなく。
特別な立場、でもなく。
特別な役割や、特別な機能として、でもなく。
ただ、そばに居た人として。
たまたま、そこに居合わせた人として。

苦しさの種類は、カテゴライズできない。
レッテルも貼れない。

病気なのか、障害なのか、経済的になのか、
不登校なのか、いじめなのか、うつ状態なのか、とか、
そんなカテゴライズではなくて、
その子の、その人の、
今日のしんどさ、今日の悲しさ、今日のいたたまれなさ、今日の居心地の悪さ。
気づけるアンテナを持ちたい、
気づいた時にかける言葉、
気づいた時にふとそばに居るたたずまいのようなものを、
持ち得たい、と、願っている。

それは、日々の暮らし方、日々のふるまい、日常の中の身の処し方、
つまるところ、生き方そのものの姿勢として、私はどうありたいか、ということ。


最近私は混乱していた。
専門的な機関へ実習に行ったことも大きな揺さぶりだった。

「そのように在る」ことと、「そのように働く」こととが、
混在してしまったことが、混乱の要因だったと、
読みながら気づいた。

暮らし方、なのであって、働き方、ではない。
たまたま、そのような姿勢が仕事に活かされることはあっても、
仕事のために、そのような姿勢を目指すということでは、
けしてないんだ。
そして、それで、いいんだ。

どんな仕事をしていようと、仕事をしていまいと、
生き方そのものの姿勢として、
追及し続けるものなんだ、そもそも。

そう気づいたら、なんだか、もやもやしていた雲がはれた。
呪縛をとかれた気持ちになった。

*********

ミラクル続きの10月でした。
ほんとうにいろんな人と、思いがけない場所で、場面で出会った一カ月でした。
そして、よくこのスケジュールをやりくりし得た、生ききれたという一カ月でした。
詰まった日々の中でいつ読む時間があったか定かではないけれど、
良い本とたくさん出会い、
コスモスを愛で、愛すべき花水木が紅葉も美しいことを知り得た10月でした。

生きのびた10月のしめくくりは、呪縛からとかれ、
自らの根幹を支えるバイブルとの、ミラクルな出会い。

きっと、たぶん、忘れることのない10月になりました。
by shiho_kato | 2011-11-01 05:44 | 読書ノート