クリスマスを前に、『子どもの無縁社会』を読む。
私自身も仕事の中で幾度も触れてきている子どもたちの厳しい現状。
それでも、
それでもあらためて、頭がくらくらする。
これが、本当に、この地続きの日本の中で、
子どもたちに到来している現実の一部を切りとったお話なのだ、と。
家族ごと、身の置き所がなくなることも、
親子で、家族で、他に結びつくよすがを一切合切持たなくなることも、
やむなく、子どもと親とが引き離されることも、
そして、子どもが、親に、明確な意思をもって捨てられることも、
あるのだ。
毎日を、朝を晩を、子どもたちと、
言葉を交わし、食事をし、寒いね、暖かいね、うれしいね、疲れたね、
と言い合えるのであれば、きっと生きてゆけると、
思っている。
だけれど、
そう言い合える環境を、そう言い合える状況を、条件を、
維持するところにも、はるかに高く大きなステップがあり、
私は、きっとそこのところのステップは越えたところで、
「日々をつむいでいくのは、なかなか大変なことだなぁ」、と
実感しているのに過ぎない。と、思いしらされる。
そして、いつ、なんどき、そちら側にいくやもしれぬ危うさと、
決して、そうはならないであろう、確かさとが、
ないまぜになって、せまってくる。
誰も責められない。
子育てを放棄して、日夜ゲームにはまる、親ですら、
責めきれない。
ゲームにはまりながら、得たいものが、
ゲームにはまらずには、得られなくなってしまった、それは、
個人に帰する問題ではないはずだから。
ため息を幾度ものみ込みながら、読み終えた。
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続く一冊は、渡辺淳一の『事実婚』。
新たな愛の形、なのだそうだけれど、そうだろうか。
読みながら、
読み終えるころに、
しっかと刷り込まれたのは、
「ひとりでも生きられることを前提にできるほど、
自立せよ。
さらば、婚姻の形態を選ぶ自由はあろう。」
ということ。
自立した収入を得られる未婚者にとっての選択肢であり、
いまの、この社会の、
十分に自らを食わせることのできない収入が
結婚の妨げになっている多くの結婚願望を秘めた未婚者にとっては、
新たな希望ある選択肢にはならない。
二冊の本を読んで、
ひとりで生きよ、
ひとりでも生きられる強さを、したたかさを身につけよ、
この時代を生き抜く術は、そこにあり、
そう言い聞かされている気がして、
ズンと、重たくなった。
はたして、そうか・・・。