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読書日記12/29 小林和彦『ボクには世界がこう見えていた〜統合失調症闘病記』、木村俊介『物語論』

読書日記12/29 小林和彦『ボクには世界がこう見えていた〜統合失調症闘病記』、木村俊介『物語論』_d0134102_20224244.jpg

東日本大震災の復興に関して述べる熱い多弁な書が
今年はたくさん出版された。

この本は、ともすればその種の一冊と読んでも違和感がない。

この社会の仕組みを良いものにするには。
あるとき、そこに天啓のような思いつきを得て、
構想へのイマジネーションがたくましくなり、
こうすればこの社会は完璧に良くなる!
自分はそのためにこうたち働こう!
その着想の高揚感は、ちまたで声高に復興を論ずる人たちのそれと似ています。
構想からの連想が溢れ出し暴走し、
それを過剰に言葉に記し替えていくことも、
辟易するくらいの言葉数でたしかにそのままだと異常なのです。
でも清書、推敲前の書き散らしであれば、
作業工程として、このくらいは書いた上で絞りこむことはあり得るような気がするの
です。

そう思いながら読むと、
「発病」が病気というより、暴走による事故のように読めてくる。

それこれ含め、この本のタイトルに、統合失調症闘病記と無ければ、
病気の記録ではなく、一アニメーターの苦悩の青春期の記録と読んでしまえる。

そして、ハッとするのは、
自らのちょっとの逸脱から相当の逸脱までを含めて
自覚して止められず、止められなかった記憶も含めて
意識の中に鮮明に刻まれているということ。

本書の解説で精神科医の岩波明氏が、
統合失調症の当事者が、自らの体験を記したものは、稀にしか存在していない、と、
書いている。
いや、これだけ意識も記憶も鮮明であったなら、
それを抱えて生きること自体が、病気を越えて苦しかろう、
と思うのです。

酔っ払いの記憶すべてを有しながら生き続け
それでも酔っぱらってとんでもないことをしでかしてしまうことを
止められない感じ・・・。と言ったら、
ちょっと不謹慎か。

岩波明は、最近『どこからが心の病気ですか?』(ちくまプリマー新書)を読んだば
かり。
その時に感じた、これを病気とみるか否かは紙一重で、
こんなことがあればこのくらいの気分の落ち込みも荒れもあって当たり前、
これもそれも病気と見るならば、多くの人は一度ならず治療の対象となる経験を持つ
だろう、
と、つくづくと思ったことを思い出す。

同じく岩波明の『文豪はみんなうつ』を思い起こしながら、
(これらを読んだのはたまたまで、岩波氏の本を読もう!と心に決めて読んだわけで
はないのです)
木村俊介さんがインタビューして編み上げた『物語論』を読む。
17人のクリエイターが、クリエイトにのぞむ際の手法についてインタビューをまとめ
たものを読む。

ここで手法として語られている、小林さんの頭の中に生じていることとの境はなんだ
ろう、
僅差、あるいはきわめて類似した頭の動きであるように読める。

『ボクには…』のくだりにある。

「みんな"この一線を越えてしまったら帰って来られなくなる"という、正気と狂気の
境で踏みとどまった経験があるのかないのか、ということだ。」

小林さんはこの文章に、暗にもっと多くの人が踏み越え、かつ生還?しているだろ
う、
みなそれをカミングアウトしていないだけなのではないか?と、告げる。

岩波氏は、この病気は当人の病識(病気であることの自覚的な認識)がないがために
体験記は書かれにくいとも書いている。
病気としては、何かが決定的に違うという判断が専門的にはあるのだろう。
でも、踏みとどまるか、そうでないかの違いであるなら、それは僅差だ。と、思う。

そして、小林さんの書く、
この社会は精神障害者にとって生きにくいけれど、
その生きにくさは、普通の人たちにとっての生きにくさと、変わりない。

そういうことなんだ、つまりは。
そう、合点する。
by shiho_kato | 2011-12-31 20:22 | 読書ノート