むむちゃんの散歩道

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関口尚の『プリズムの夏』を読みながら考える、生から死へ

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「生きなくちゃ死がわからないもの」
「いっしょに生きた思い出がないと、死というものは立ち現われてこないのだ」

小説の主人公の二人の少年たちの死への思い。

不意に、数日前に見た訃報記事を思い出す。
故吉本隆明の妻。吉本和子の訃報。85歳老衰。

隆明は、この3月に逝った。
半年間、こらえたように、静かにそっと追いかけたように。

和子さんは体が弱かったそうだ。
隆明の娘たち、漫画家ハルノ宵子も、小説家のよしもとばななも、
お弁当が必要なときは、隆明が作っていたそうだ。
彼のその、暮らしを回していくために骨身を注いだ生活の在り様は、
すべて、彼の思想に反映されていると、思う。

私の20代から30代を、育ててくれた
故牟田悌三さんの妻は、牟田さんの亡くなった一年後の三周忌を終え、
責任を果たし終えたようにして、亡くなられた。


今、映画で上映されている冲方丁の『天地明察』は、
小説では、渋川春海(安井算哲)の死を見届けるようにして数時間後の同日に、
二人目の妻えんは没したとされている。


人という字が一人ひとりを支えあっていう姿をあらわすとか、
今更、そんな野暮ったい通説を持ち出したくはないのだけれど、
支えあいながらまっとうした人生というものは、
そうして、終焉していくものなのか、と、ふと思った。

小説を読みながら、訃報を目にしながら。

死者を見送り、あなたの生きた証を確かに見届けました、と、言い残して、
この世を去るのが、その者の人生を支えてきた者の最後の役割として
残されているのであろうか。

だから、不慮の事故や天災や、突然に訪れる死は、嫌だ。
できる限り、そのような別れを多くの人が避けられますように、
もちろん私自身も、と願う。

そして、もうひとつ、先日、私が乗るはずだった電車は人身事故により、
前線ストップし、振替輸送となった。
目的地まで向かう方法の選択肢は限られているので、
どこもかしこも混んでいて、一時間ばかりの迂回の時間を要した。

そして、その人身事故が、中学1年生の女の子の自殺であったことを、翌日に知った。

どうして。。。
どうして。。。

奥歯を噛みしめても、
踵で床を蹴り飛ばしても、
これほど生きてほしいと見知らぬ他人が願ったことは、
もうすでに彼女に届かない。


『プリズムの夏』で、ぼくたちが松下さんの命を救えたことは
小説の中でのファンタジーでしかない。

だけれど、日々誰かが誰かの命をどこかですくっている事実は、
物語としてすら描かれようのない、描きようのない形で数多に行われている。
そこから、ふと漏れてしまい、身を投じてしまう人たちを
ドラマティックにではなく、ささやかな日常の積み重ねの中で、
なされていくような社会は、どんな社会だろう。


彼らが、長い年月を連れ添い、互いの人生の証人として生き抜いて、
静かに先に逝く人を見送り、亡き後を見守り、そっと追いかけるような、
人生の終え方ができるような。
それが、奇跡的でごくごく稀な形であることは、百も承知だけれど。
by shiho_kato | 2012-10-13 14:51 | 読書ノート