6年前の私の誕生日は、忙しいさなかの一日だった。
帰りもいつもよりちょっと遅い。
2歳のむむちゃんと二人だけの夜。
誕生日は省略だ、と、自転車を漕いでいたら、
うしろから、むむちゃんが
「ママ、きょうはママのたんじょうびだよね」と言う。
うんそうだね。
「ママ、ケーキある?」と、聞いた。
無いよ。夜遅いし、ママの誕生日はそんなに大事じゃないからいいんだよ~。
「ママ、むむがかってあげる。ママのケーキかってあげる」
むむちゃんが、泣き出しそうな声で言った。
ケーキ屋さん行くのたいへんだし、いいよ、大丈夫だよ。
「ケーキ屋さんあるよ」
そう、ケーキ屋さんはあった。むむちゃんに負けて、ケーキを買った。
そして、ちょっぴり泣いた。
むむちゃんの優しさに。自分の余裕の無さに。
家族と言うものについて、あれこれ考えたりしながら。
今朝、むむちゃんは、オーブンの脇にケーキの姿を発見て、
ほっとした顔をして、「ママ、お誕生日おめでとう」と笑った。
もう、むむちゃんはケーキが無くても、何も言わないだろう。
用意できないのだとしたら、忙しさとか大変さとかを想像できるから。
そして、きっと2歳のむむちゃんと同じように胸を痛める。
2歳のむむちゃんのメッセージを大事にすることは、
今のむむちゃんを大事にすることだ。
子どもたちの中には、変わってゆくものと変わってゆかないものがある。
その中から、もう二度と伝えてはくれないかもしれないけれど、
ずっとずっと変わらない「それ」を忘れずにいたり、
どれが「それ」なのか、見極めて選んだりするのは難しいことだけれど、
一緒に時を重ねて成長を見守る大人の大事な役割のひとつなのだろうと思う。
日々の忙しさの中で、指の隙間から、たくさんたくさんもれていく。
それでも、少しだけ拾い集めて、こうして書き記して、思い出してみたりする。
あぁ、そういえば、私は母の誕生日を、どんなふうに祝っていたのだろう。
母の誕生日は、不幸にか、幸いにか、「母の日」と近く、いつもいっしょくたに
お祝いしていたような気がする。
覚えているのは、
まだ北海道にいたころ、小学1,2年生くらいのときに、
折り紙で折ったカーネーションをのりでつけたお手紙を、
台所に置かれた本棚の側面に貼り続けていてくれたこと。
もう少し大きくなってから、
お母さんが好きだから、と、弟とふたりで
お小遣いをもって、大福?をプレゼントに買いに出かけたこと。
そうか、むむちゃんは、今を、いつまで覚えているのだろう。
忘れたくないのは、私自身のため、なのかもしれない。
母であった、という事実を、忘れないため、なのかもしれない。