むむちゃんの散歩道

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映画『隣る人』を観る。 題名のとおりでありたしと願う。

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昨年から気にはなっていたけれど、
どことなく気が重くて、観ることのできなかった
『隣る人』
http://www.tonaru-hito.com/

もののはずみで、とびこみで観ることになった。
結果、あえなく途中退席。
気分が悪くなってしまって、座り続けることができなかった。

ものごと、自らのアラームには慎重に耳を傾けねば、
と、反省したり悔んだりしている。

気分が悪くなったのは、カメラワークのぶれが多分に大きい。

そして、もうひとつ。

『隣る人』は、
親を失ったり、親と一緒に暮らせない子どもたちと暮らす
グループホームの8年を追いかけたドキュメンタリー。
担当職員は、24時間365日、子どもたちと生活をしているらしい。

途中で、子どもたちが職員を「ママ」と呼んでいることに気づいた。
あぁ、やばい、これ、なんか違和感・・・。

そして、「ママ」と呼ぶ職員がホームを変わることになったときに、
なついていた女の子が落ち込み、荒れ、甘え、
お別れの日「ママぁ〜」と暴れ泣き叫ぶのを、別の職員が抱き留めて、引き離す。

そこでギブアップ。

すでに実の親との別れを経験している子どもに、
「ママ」との別れを複数回も体験させてどうする。

職員は「ママ」ではないのです。
だから、そう呼ばせてはいけない。
ましてや、本当の実の親と再びあいまみえる可能性のある子であれば、なおのこと。

そう呼ばれることの甘やかさによりかかって、
24時間365日そのホームの母親役を
「仕事」として勤める過酷な状況を乗り越えようとしてはいけない。

親を失う、あるいは親と離れて暮らさなくてはならない事実を事実として受け入れたうえで、
親以外の、さまざまなおとなたちが、
ありのままの子どもをそのまま抱き留めて、そっとそばに居ようとする。

親を失っても、私を受け入れる「誰か」がこの地上には居る。
そこから希望が生まれたり、出会っていくことへのたくましい力が生まれていくのでは?

むむちゃんやぷうちゃんがこういう境遇になってしまったら、
という一人の母親として、見てて苦しかったし、
もし、そうであったとしたときに、
まやかしの「ママ」マジックでごまかされるような子どもたちでは無いことへの確信がある。
ごまかされようとしたときに、生きる力をぐっと落とすであろうことも。

かつ、「ママ」と呼ばせておいて、勤務事情による別離をすることは、
子どもたちには、「親からの捨てられ体験」を、もう一度味あわせることになる、
その残酷さ、うちの子たちにしたら絶対に許さない。


その残酷さに気づいていないであろう愛情にあふれて愛しくてたまらないふうの
インタビューには、耐えられなかったのです。


呼び名と姿勢と。
どちらもあわせて、
親ではない「隣る人」であってほしい。

そのあふれんばかりの愛情があるのであれば、こそ、
どこまでもどこまでも、「隣る人」であることを追求してほしい。
親になり替わろうとするのではなく。


最後まで観ることができずに、映画を批判してはいけないのかもしれない。
彼女たちのような仕事は、私にはできないのに、批判してはいけないのかもしれない。
でも、これの評価が高ければ高いほど、
このあり方を安易に良しとする人をいっそう増やしてしまう。

そして、何より、それ以上に、もしもこんな仕事をし始めていたら、
即座に親になり替わろうとしてしまっただろう、
そういう麻薬に負ける偽善を持ち合わせているわたくし自身に気づき、嫌悪感。


学び多き途中退席、ゆるされたし。
by shiho_kato | 2013-03-18 01:16 | 読書ノート