むむちゃんの散歩道

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「子どもの貧困対策法」の成立目前。法律とは何か。

子どもの貧困にかかわる法律ができることを目指して、
「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークで、活動を進めてきた。

「子どもの貧困対策法」は、
今国会のさなか、春頃より各党共に
議員立法を目指して法案を練られてきて、
昨日ようやく衆議院の厚生労働委員会であげられ審議に入った。

審議入りさせ、とにかく法律が制定されることを第一に、
その内容について実効性あるものになることを第二に、
この間、急ピッチで、市民として熱望の動きがあることをしめし、
議員、政党への働きかけをし、
内容にこれだけは入れてほしいという要望を出し、等々。

昨日の厚労委員会を経て、明日決議される向きがぐっと強まっている。

悲願と言えば、悲願の法律化。
「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークの発足当初より掲げてきた
目標の大きな一つの達成となる。


なぜ、法律なんだろう・・・・。
たちどまって考えている。


法律は、何を意味するのか・・・。

法律の制定の動きに、ほんの少し仕事における立場上、
関わることができた、虐待防止法やDV法の成立過程と、
法律のできる前と後のことを、思い起こしていく。


あぁ、そうか。
法律は、社会的認知なんだ。

児童虐待は、社会にあってはならないものです!と、宣言したものが虐待防止法であり、
DVは、社会にあってはならないものです!と、宣言したものがDV法なんだ。

子どもの貧困は、この社会にあってはならないものです!と、いまようやく認められようとしている、ということなんだ。


虐待防止法のできる前、親のしつけに暴力があることはどこかやむを得ないように受け取られていた。
虐待で子どもはかわいそうだけれど、親のすることに口出しはできなかろう、という雰囲気があった。
そんな社会に、世間に漂う雰囲気を、「ダメなんです」と言い切ったのが、法律だ。

DVは、男女の愛情の在り方のひとつのように受け取られていた。
カップルの間の、夫婦のことに、周囲が口出しするのは、ちょっとね、という雰囲気があった。
言葉の暴力も、肉体的暴力も、性の強制も、「ダメなんです」と言い切ったのが、法律だ。


子どもの貧困、戦時下は、戦後は、もっと貧しくて、食べるものも着るものもなかった、
それに比べれば、100円ショップの服だって、文具だって、ファストフードだって、
手に入るんだ、学校だって行けないわけじゃないじゃないか、
あのころに比べれば、あるいはアフリカの飢餓とかに比べれば、ましじゃないか。
みたいなことは、いまだにとっても言われることだ。


同時代に、同じ社会の中での差異をもって貧困を測定する方法で定義するのが
「相対的貧困」というものだ。
日本の子どもの貧困率は、2009年以来、その「相対的貧困」を指標としている。
現在の日本の、その差異を図った「相対的貧困」の割合は子どもで6人に1人。

必死にとりつくろって、衣食住を満たすためのトリプルワーク。
修学旅行にみなと行くために、食事を電気をガスを削って、お金を作ったり、
同時代を生きるみなに置いて行かれないための死に物狂いの努力がある。
義務教育後の進学をあきらめて就職したり、
病気になっても病院にかからないようにしたり。
それら親の努力も、子ども自身の努力も、ひとつひとつが、
「生きているだけでお金がかかる」
「生きていない方がいいのかもしれない」
自己のこの社会への存在を否定する意識をおのずと作っていく。


子どもの貧困は、この社会にあってはならないものだ、
法律は、そう宣言するものだ。

あのころに比べればいいじゃないか、
貧しい国の子どもに比べればいいじゃないか、
そういう言説を、真っ向から否定して、
「相対的貧困」の割合に入る子どもたちを減らしていかなくてはならない、
と宣言するんだ。



*************

大阪の母子の餓死は、孤独死として報道されている。
誰かに助けを求められなかったのか?
助けを求めるためには、エネルギーがいる。
助けを求めたときに、助けを得られるだろうか、という葛藤ののちに、
得られるだろう、と思えたときに、SOSは発信できる。
私など助けを得られる価値がない・・・と、
自己否定の気持ちが強ければ強いほど、
SOSは発信できない。
貧困化におかれればおかれるほどに、助けてと言えなくなるんだ。


自分の親にだけは、お金がないことを相談していたという母。
そこが精いっぱいだったんだろうと思うと、悔しい。


彼女たちの死は、餓死であり、
文字通り、経済的に食べるものを得られないが故の死だ。
母子の、「子」に焦点をあてれば、子どもの貧困による死だ
そして、これは相対的貧困、どころか、絶対的貧困、だ。


子どもの貧困対策法ができたとしたら、
この母子の死は、
この社会にあってはならない子どもの貧困があったという事実。
それを無くしていかなくてはならないんだ、という公的責任に、結びついていく。
結びつかせなくてはならない。

当事者がSOSをうまく発信できないときに、どうやって見つけていくか。
見つけていく方法も、また問われる。


稀有な、特別な、特殊な母親と、子どもの、
他に類を見ない事件の一つとして、
片づけられてはならないんだ。
by shiho_kato | 2013-05-30 18:41 | 社会&地域&子どもノート