むむちゃんの散歩道

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読みにくい本、読みやすい本。伝わる言葉は、聞こえる言葉。

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私は小説読み、でもあるが、新書読みでもある。

学生時代の往復4時間の通学行程を支えてくれた岩波新書
(軽くて持ち運びやすい、かつ大学図書館には読み物系の文庫など置いてない)
に鍛えられて、新書には目が光る。

なのに、最近、読めない新書が多すぎる。
物理的に時間がなくて読めないのが最大の理由なのだけれど、
読むに値しないか、
新書のくせに小難しい抽象語を多用しているか、どちらか両極に分かれる。


内田樹編の『9条どうでしょう』を文庫で楽しく読んだ。


本橋哲也編の『格闘する思想』は読み始めて間もなくダウン。
対談集なのに・・・。

まえがきが対談者の業績紹介にくどくどと長く、
対談トップバッターの萱野稔人の言葉がまた、とても小難しい。
話している内容は要約すると、
「小難しく自分自身でも意味を理解していないような単語を並べることで論じてると勘違いしている人たちへのアンチテーゼを自分としては試みている」、
という内容なのだけれど。
その説明が、なんだかすっと入ってこない文章なのだもの。

結局対談ひとりめで挫折しているあたり、私の力量に問題あり、
と見るべきなのだけれど、
いち読者としては、いち本読みびととしては、
気に入らないものは気に入らないんだ。

内田が『9条〜』で述べていた、言葉が思想を上回る、
それをつくづくと実感する。

『9条〜』に書かれていた
小田嶋のサッカーをたとえに用いた比喩も、
町山の語り節も、
声が聞こえてくる文章だった。

そう、声の聞こえてこない文章は、フィクションでもノンフィクションでも、
ダメなのです。

谷川俊太郎が、言葉とは音であり、耳で聞いて理解できる文章が
正しい言葉であると述べている。

ものを書く人はあらためて、肝に銘じてほしい。

内容は興味があるのに、文章が流れないがために、
読めない本が増えるのは、本当に悲しい。

なぜなら、私はたくさん読みたい人だから。
ごくごく水を飲むように読みたい人だから。

小説の文章は、会話も心理描写も、語り言葉だ。
きっと、だから好きなんだ。小説が。

語りの言葉は、聞こえてくる声だ。
耳で聞いているように、目で文章を追う作業は、楽しい。

そして、言語は、伝達するためにうまれたものだ。
伝わる言語、伝わる言葉でなければ、
思想も哲学も、無いのとおんなじ。

忙しくって、暑さにやられて、ぼ〜っとしてて、
駆けずり回る日々でへとへとでも、本を読みたい。
そんな私のような人にも届く言葉を使える人でなければ、
物書きと読んでやらないんだから。

いま、小学生の子どもと、小学校にあがる前の子どもと会話しながら、
意味を伝える言葉をしょっちゅうしょっちゅう探している。

わかる言葉に置き換えて話す訓練をしていると、
たいていの事柄は、子どもたちにわかる言葉に置き換え可能なんだ。
置き換えられないのは、ひどく疲れているとき、面倒くさいとき、急いでいるとき。
たいてい外側に要因がある。

横着して、簡単な単語、簡単なワンフレーズに、
身を任せてはいけない、と自戒をこめて、思う。
小難しい言葉を用いることで、小難しいことを論じている気分になってもいけいないと思う。

どっちか選ぶとしたら、
10歳の子どもにもわかる言葉ですべてお話できる人が1000倍エライ。

あぁ、読みやすくて、中身のある文庫や新書が読みたい。
単行本一冊ですら重く感じる夏。
単行本一冊じゃもたない明後日からの旅の道中。

旅を楽しませてくれる本に明日、出会えますように。
by shiho_kato | 2013-08-02 23:02 | 読書ノート