この夏、わが家に四匹のカブトムシがやってきた。
はじめてのお世話を要する生き物たち。
保育園のお友だちにもらった
つばめくん
はなちゃん
千葉でもらった
ねこちゃん
青森でつかまえた
すずちゃん。
はなちゃん、つばめくん、すずちゃんの順に、見送り、
いま、ねこちゃんひとりになった。
ぷうちゃんは彼らを一匹と言う時もあれば、
ひとりと言うときもある。
飼うとは、どんなことか、あらためて考えたりする。
最後に残ったねこちゃんは日中を土の中で過ごす。
深夜から明け方に、土から出てきて、
飛んだり、はい上ったり、木をかじったり、ゼリーを食べる。
ねこちゃんの生存確認は、深夜から明け方にしかできない。
が、ために、ねこちゃんがひとりになってからは寝るお部屋の
光が当たらないところが、ねこちゃんの定位置だ。
夜中に羽ばたく音や、ガリガリする音が聞こえると、
あぁ、ねこちゃん生きてるな、
と、ホッとする。
つばめくんとはなちゃんがやってきた時には、
それらの音がお隣の部屋から夜中に聞こえるのを
ぶぅぶぅ言っていたむむちゃんも、
3びきを見送って、
あと一匹の命、枕元で聞こえるとホッとすると言う。
はなちゃんとすずちゃんは、
ぷうちゃんがいないときに逝った。
むむちゃんと私で、さよならをした。
ぷうちゃんがさよならの場面に立ち会ったのは、
つばめくんだけだ。
ねこちゃんの命も、あと少し。
ぷうちゃんにとって、むむちゃんにとって、はじめての
家族以外の、お家の中にやってきて世話を要する命たち。
ひとりと呼ぶぷうちゃんにとっての出会いと別れ、
ぷうちゃんの表情からうかがうことは出来ずにいる。
むむちゃんは、3匹めのすずちゃんには、さいごはじめて触れてそっと撫でた。
これもこの夏の、出来事。
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飼うことについて、少し。
かつて飼い犬とわが子の名を混同されてしきりに腹を立てていた。
子どもの代わりにペットを飼うという選択をする、という話にも、
代わりになるはずがなかろうが、という気持ちになる。
家族の一員であり、喪った人たちは「ペットモーニング」に陥り、「ペットロス」をケアする業種も生まれている。
それらへの私の異和はどこに由来するのだろう。
考えていて、この夏の津軽三味線の話に、答を見つけた。
三味線の皮は主に犬を使うそうだ。
猫も時に使われる。
人間の皮は使われない。
私は自然との共生は大事にしたいと常々思っているけど、
三味線に犬猫の皮を用いることに欠片も反対する気は起きない。
蚊もゴキブリもブヨもアブも蛾も忌むもの。
私は人という種であり、
人という種は、自らの文化に犬猫を利用する種なんだ。
ペットとして家族に迎えた犬も、猫も、カブトムシも、
存在の意味合いの点で一線を画している。
一線を画していることを承知しながら、尊い命として愛情を注ぐのは良い。
学ぶ対象であって良い。
ただし、一線は越えられない。
同じ命、で、ありながら、異なる在り方で、
存在している命がある。
被災し、ペットという家族を喪った傷みを伴う只中にある人には
突きつけてられない。
それでも、わが子たちにはいつかそう話せる私でありたい。