むむちゃんが体育祭の振替でお休み。
予感していたとおり、(ぷうちゃんは学校に行きたく無い故に)「いつもと違うお腹の痛さ」があるそうだ。
運動会が終わってしまって、水泳の始まる予告の紙(水泳参加の承諾書)が配られ、
下り基調なところへの、むむちゃんのお休みだから。
今日は職場の会議の無い稀なる月曜日。。。
相方の司書さんも出勤する日。。。
安心して休める日。。。
思い切ってふたりともお休み。
アスレチックフィールドつきみ野へ。
本格的なアスレチック。がっつり遊べる。
学校ではなく、学童クラブの子どもたちかな。
異年齢の子どもたちの集団がいくつかと、運動会の振替休みと思しき親子連れがちらほら。
子どもたちが混み合わないところは、私も一緒にチャレンジ。
たっぷり遊んだ。
それから二日、ぷうちゃんは今週二度目のお休みをした。
朝から小さな予感があり、大丈夫かな、心配になりながら「よりみちでたくさん梅の実採ってきてね~」とできるだけ明るい声を投げて、後ろ髪引かれる思いで先に家を出た。
駅までの道で担任の先生とすれ違い、呼び止めて少し相談しておこうか迷い、後ろ髪引かれる思いで前に向き直った。
そのときに言い聞かせたんだ。この「予感」「予兆」を感じることができた私を覚えておこう。もし、学校に行けなかったとしたら、それに気づけていた「私」はエライぞと思おうと。
むむちゃんからの電話、小学校からの電話がかかってくるのではないかと、スマホを握り締めての通勤だったけれど、かかってくるはずの時間をクリアしたので、行けたんだね。と、ホッと胸をなでおろしていた。
夕方、そんなことをすっかり忘れて家に帰ると、ぷうちゃんの顔つきがおかしい。
具合悪い?どうしたの?訊ねると、
「・・・あのね、今日ね、学校行かなかった・・・」
やっぱり行かなかったのか。
やっぱり行けなかったのか。
朝はあんなに覚悟していたのに、覚悟を解いたあとの不意打ちだったので、打撃をくらう。
打撃をくらってしまった反動で、
「どうして行けなかったの?どうして行けないって言ってくれなかったの?」
と、口をついて出てしまった。
不毛な問だ。あぁ、瞬発力がうらめしい。
ひと呼吸おいて立て直す。
「ぷうちゃんはきっと発表のことがイヤだったのかなって思ってるけど、それであってるかな?」
「うん」
「そしたら、明日、ママが先生に説明しに学校に行くようにしようか。」
「うん」
「ママだけがお話するのと、ぷうちゃんも一緒にお話するのとどっちがいいかな?」
「・・・ぼくも一緒にいく」
もー、予感してたんだよー、なんか休むんじゃないかなーって。
朝教えてくれたら、朝、一緒に先生のところに行ってイヤなことをお話したのにー。
はやく言ってよーー。
冗談めかして話したら、ホッとした顔をしていた。
よりみちには行ったそうだ。
梅の実をたくさん採ってくると約束したから。
せめても、ぷうちゃんの楽しみを後押しする、最後の一声をかけておいて良かったな、と思う。
そう言えば、どうして学校からは連絡は無かったんだろう。
・・・
今回のお休みは、先生のまずさにある。
英語の時間に英語の先生に1から20を英語で言える人と促されて、
手をあげていないのに指されたぷうちゃんは、答えるのを拒んだそうだ。
サポートでついていた担任の先生は「今言わないなら、明日から10回連続であてるぞ」と言ったとか。
きっと、軽い気持ちで、英語の先生をフォローする気持ちで、冗談めかして言ったのだろうと思う。
相手が悪い。ぷうちゃんは発表が苦手だ。
役に成りきって読む教科書やセリフならいい。
自分の考えや意見を言うのが苦手だ、ましてや英語は発音をみなに聞かれることにプレッシャーがかかる。
真面目で、ネガティブなところがあるから、10回も連続で発表させられるなんて最悪だ、と頭の中にしっかりインプットされてしまったに違いない。
むむちゃんも発表はキライだ。むむちゃんの場合は苦手なのではなく、キライ。はっきりしている。
私も発表が苦手でキライな子どもだった。
北海道、福岡、千葉とあちこち転校して、声が変、発音が変、と言われることが重なって、名前を言うのも、返事をするのも厭うていたくらいだから。
学校の授業の中での意見とか考えとかいうものは方向付けされているものがほとんどで、それを先読みして見つけることなど大して難しいことではない。それを発するのがダメなのだ。先生によっては、わかっているのに答えないのは、周囲をあるいは教員をバカにしてるからだ、と思われた人も居た。そんな人に、どんな事情も通じようはずがないよな、と、今でも思う。
というようなことを、掘り返しつつ、「「自由の相互承認」のチカラをつけるための公教育」という定義に照らす。
不要だよな。発表の強制。
むむちゃんも授業内で自ら発表するところは見たことがないけれど、適切なところで適切な発言ができる。
私など、あの頃あぁだったのに、今となれば、相手が30人でも50人でも180にでも、マイクを持たされれれば必要な時間それらしいことを話し続けることができる。
必要に迫られれば、使命を感じることであればするんだ。
そのときに引っ張り出してくるのは、人がそうして話しているのを見聞きし、この人の話し方は聞きやすいな、という経験であって、イヤイヤした発表の経験ではない。
そんな話を相方司書さんにしたら、「今のアクティブラーニングの潮流で、発表とかプレゼンとかをする機会が増えることで苦痛が増さなければいいけれど」と。
本当に。
辛抱強くアプローチしていく力が必要な場面もあれば、
相手を魅了するプレゼンテーション力が必要な場面もある。
それを互いに役割分担しあって助け合えるのがアクティブラーニングのいいところだ。
辛抱強い探求力と、訴求力のあるプレゼン力とを、ひとりがすべて身につけなくてはならない、というものでは無いということを、先生方が勘違いしませんように。
我が子のことになると、時間的背景も場面的背景も見えるから、いっそうせまってくるなぁ「学校の教育の力」