横浜市の男女共同参画センターで「ひとりのしあわせ」をテーマに企画展をやっているそうだ。
その記事がこちら。
(HUFFPOST 2017年7月27日更新)
正確には、図書館の企画展ではない。
けれど、個人的には、図書館こそ、そこ(ひとりを肯定すること)がぶれないように、あるべきだと思っている。
私は最終的には、「孤独を抱えることができる力」を持つのがおとなだと思っている。
だって、人はひとりひとり異なる。それぞれに自分を主人公として自らの人生を歩んでいく。
初めから終わりまで一緒の誰かは、残念ながら居ない。
たとえ、家族であっても、立つフィールドは異なっているし、感じること、考えることも異なっている。
最終的には、いや、最終的でなくたって、人はひとりなんだ。
と、思っていると、
世の中は、「コミュ力」や、「絆」や「つながり」や「ネットワーク」や・・・。
ひとりではないことが重要である、というメッセージが溢れている。
どのワードもチョコレートやアメちゃんのようなあまーいお菓子。
食べると幸せになるし、山で遭難しかけたときにとっても効き目のあるお菓子だけれど、日々の体の栄養にはあんまりならない。
「ひとりではないこと」を、社会の側が個人に要請するのは、危険なベクトルです。
「私」の考えではなく、「みんな」の考えにのれることに流されると、
「私」の考える力はどんどん弱っていく。
その結果は、民主主義の衰退だよね。
個人の意見、個人の意思が、しゃきっと立てなくなるんだもの。
だから、今、日本はこんなにゆらゆらゆるゆる地盤沈下みたいなことを起こして、
政治がボロボロになっているんだなー。
アクティブラーニング、大丈夫なのかな。
この、1、2年あれこれ見てきて、あんまり大丈夫じゃない気がしている。
グループワークは、仲良しごっこじゃないぜ。
周囲の反応に迎合できる力を「コミュ力」として評価しないで欲しいし、
周囲のウケを歓喜できる力を「プレゼン力」として評価しないで欲しい。
そこに「主体性」は、もちろんあるにはあるけれど、一部の主体性が、他の主体性を凌駕していく。
・・・。
学校図書館がアクティブ・ラーニングの最適な舞台だ、って図書館関係者が主張するのはいいけれど、
それによって、「ひとり」で居やすいはずの図書館が、「一緒力」が試される場に舞台替えすることにならないかな、と懸念している。
わたし個人としては、それはとっても、イヤだ、と、思う。