むむちゃんの散歩道

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宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』、古内一絵『フラダン』、今村夏子『星の子』

宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』は直木賞候補作、今村夏子『星の子』は芥川賞候補作、『フラダン』は夏の課題図書ゆえ、読んでみることに。
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『あとは野となれ大和撫子』は、中央アジアの小国でクーデターが起こり、逃げ出した議員に代わり少女たちが国政をにぎり、国内ゲリラと、近隣カザフスタン・ウズベキスタンからの侵攻と、PKFを相手取って、どこからも戦いが発生せず国土を侵略されない方法を画策するというもの。

知恵と駆け引きの勝負で、こんな解決ファンタジーだと切り捨てることは簡単だけど、
私は「あり」だと思った。

中央アジアの国における、政府軍とゲリラの関係がわかった。
中央アジアの国において、近接する諸国との危うい均衡もわかった。
PKFの乗り込み方、手のこまねき方もわかった。
私にとっては、読んで学習できた(バラバラだった要素が整理された)小説だった。

対話じゃなくって圧力だとか。
いつの時代のどこの国の言葉かと思ったら、昨日国連本部で我が国のエライ人がおっさっられたそうな。

国際社会において、日本のグローバル化に対応するために「主体的、対話的、深い学び」の教育を推奨しようというこの国において、旗振り役の御仁は、対話は不要と胸を張って世界に喧伝しているのだから。
どうりで、我が国の教育力はあがらないわけだ。キーワードはただのキーワードであって、実践とは合致しなくてよろしいようだ。OECD34カ国中、教育への公的支出の割合が最下位34位だそうですから、学びに投資する考えは皆無であることがよーくわかる。

そんなことをツラツラ考えさせてくれた小説で、意外と面白く読むことができた。


今村夏子の『星の子』は警戒しながら読んだ。
彼女の書く『こちらあみ子』を、すっごくいい本だから、と、人にプレゼントされたことがあったのだけれど、スピリチュアルな不思議ちゃんに、ちっとも世界を共有できない気持ち悪さを感じた記憶があったため。

新興宗教にのめりこむ親をもつ子どもの戸惑いを描いた小説。
戸惑い・・・じゃ、無いのかな。
子どもにとって親は親で、親の愛情があつければそれはやっぱり「愛情」なんだということがよくわかった。
そして、何か変だ、と気づくのは、外から客観的に見た反応に触れたときで、それを受け止めるか、それに反発するか、それを踏まえた上で選びなおすか、ことは、さほど簡単ではないということも。

『こちらあみ子』よりは、すんなり読めた。



古内一絵『フラダン』は、
福島の工業高校のフラダンス愛好会のお話。
同じ学校に通いながら、親の有無、住まいのこと(仮設か持ち家か等)、親の仕事のこと、話題としてタブーが多すぎて、互いに踏み込みきれない教室の中、学校の中の、うっすらモヤがかかった空気感をよく描いていると思った。
そっと息をこらしながら、相手をうかがいながらの日々。打ち破れない、簡単にはスッキリしきれない中で、生活し、生きているんだ、と、よくわかった。

元気づけたい、勇気づけたい思いが、空回りしないあり方なんて、あるのかな。
迷いながら、その都度その都度の、これで行こう!を、積み重ねていくことで、薄く薄く新たな関係を結んだりほどいたりして見つけていくのだろう。タイヘンな、気の長い作業だ。

その間に、少年少女たちは大人になり、そこで生き続けるか、そこを離れるか、決めていく。
故郷が壊れるとは、そういうことなんだ。



by shiho_kato | 2017-09-19 14:38 | 読書ノート