アメリカと日本が戦争しているときにも、アメリカに暮らしていた日本人が居た。
大戦中に日本に居る外国人をどのように処遇したかの情報は豊富だけれど、
あるいはアジアの国々に侵攻した日本人が何をしたのかの情報は(真偽正誤のほどは慎重にはからねばならないけれど)豊富だけれど。
そんな当たり前のことを、うっかりすると忘れてしまう。
私の乏しい想像力では、この小説を読まなければ、彼らがどのように大戦中を過ごしていたか知らぬまま終わるかもしれなかった。
いわゆる「アメリカン・ドリーム」を求めて彼の地に渡りその地に根を下ろした彼らは、開戦と共にスパイ容疑に投獄され、家族は強制収容所に収容された。死ぬのを待たれる日々だ。
いわゆる在米日本人二世、日本国籍日本人の両親のもとに生まれた、アメリカで出生しアメリカ国籍を持つ子どもたちは、敵国日本の子どもとして差別を受けると同時に、徴兵においては日本を敵とするアメリカ軍で闘うか否かを迫られた。つまりは祖父母を殺す兵として。
ひっくり返して、在日朝鮮人、在日韓国人、在日中国人等々に目を向ける。
私は如何程に、彼らの受ける差別の非道さを知っていただろうか。
あらためて、たとえば朝鮮人学校の無償化を除外することは、この地で生まれた子どもが教育を受ける権利の保障を妨げることであることを、血液がフツフツとするような憤りとなって、受け止められるようになった。
私のアタマでっかちの「人権意識」は血や肉にはなっていない。
そこに生きた人をあるいは生きている人を友人のようによくよく知る機会が無ければ、するりと弁舌ばかりで通り過ぎてしまうだけの「意識」に過ぎないことを思い知る。
そして、だから、友人のように感じられる丁寧に生活を描き心の動きを描き日々の暮らしを描く小説が、私の想像力を鍛えてくれる。