図書館総合展でがっつり学ぶ二日間、パシフィコ横浜へ。
「アクティブラーニング」の言葉が闊歩するようになって、「じっくり自ら黙々と深める学び」が軽視されているような気がしている。
図書館はどちらかというと「じっくり自ら黙々と深める学び」に親和性があり、
他者との対話を重視した「聞く話す学び」ができる場としてふさわしいかどうか、、、。
一足飛びに飛びつけないなぁ、と思っていた。
なので、この「ひとりでも」っていうのは知りたくて知りたくてのキーワード。
「主体的」は、self-motivationではなく、self-directive。これはすっと落ちる。
そうか、動機付けの問題ではなく、次は何を調べよう読もうの学びのプロセスを決めて進めていくことが、アクティブラーニング的な「主体的」なのか。腑に落ちた。与えられた課題を自らの動機付けに引き寄せるのはなかなかに難しいことであるから。
「対話的」の定義は「意見を共有する」ことであり、その鍵となるのは現在考えていることを「外化」(会話でもいいし紙に書くのでもいい、自分以外の人に伝えるようにすること)することだ、との説明。ふむふむ。
他者との対話ではなくとも、自己との対話もありというお話でつまづく。自己との対話、つまり「私」の中にあるものを「外化」し、それを受け止めて返すのも「私」であるとするならば、それを対話と呼べるのだろうか。
とてもとても質問してみたかったけれど、講師の先生への質問のタイミングを逃して残念。
この講座では、要所要所でそのテーマについて両隣の人とのおしゃべりタイムがあり、前後6人でのおしゃべりタイムもあった。
体系的にアタマに入れたい時に、「何を話そうどう話そう」で過剰に緊張するのでそのドキドキは、邪魔になるなぁ・・・、と思っていたのだけれど、各学校(主に大学)の取り組みのカケラカケラを聞くことができて、欲張りな私の満腹中枢を満たしてくれた。
予期せぬ刺激や、予期せぬ情報、予期せぬ視点は、たしかにこの「ワーク型」「対話型(自己との対話を現時点では除く)」では得られることを実感した時間でした。
それと、講座を実施しているリアルタイムで、手持ちのスマホから一言コメントを入れることができて、それを見ながらおしゃべりタイムや講師のコメントを得られる体験は面白かった。
このリアルタイム一言は、かるたのクイーン戦をniconico動画で見るときにツイッターがざーざー流れてくるのと仕組み的には同じ(もちょっと整理・管理されているけれど。名前が出ないとか、参加者をその場に居る人に限定できるとか)。
いま、大学の講義ではこういうの使う先生もいるのだろうな。私の時にも、60人とかを超える大教室の講義で、こういう仕組みがあったら、もちょっと退屈せずにいられただろうな。