むむちゃんの散歩道

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鈴木るりか『さよなら、田中さん』

とても、良かった。
とても、とても、良かった。

14歳の小説家デビュー、斜めに見ていたのです。

でも『さよなら、田中さん』、文句なく良かった。とても良かった。
鈴木るりか『さよなら、田中さん』_d0134102_21542330.jpg
作風が西加奈子に似ている。
途中で、西加奈子の『漁港の肉子ちゃん』と重ねた。
西加奈子のようなクセがないところが、また良い。

よくよく人を見ているなぁ。
見たものを、思い浮かべたものを、まんま文字に落としていける自然な呼吸が身についているんだなぁ。

誰が書いたかをのぞいても、この作風は好き。
同じような作品を、読みたい。って、思う。

・・・・

この小説には、彼女が小学校4年生時に書いたもの、6年生時に書いたものも、おさめられている。

そうなんだ。
子どもたちの頭の中で心の中には、いろんなストーリーがおとずれる。

自分は捨て子物語だ、とか、実は異国のお姫様物語、とか、天涯孤独の物語、とか、
いじめられっ子物語、とか、友だちとけんかする物語、とか、ヒーローになる物語、とか。

空想の中の、妄想の中の、描かれるそれらの物語の数が多ければ多いほど、生きる耐性になる。

どんな現実も、それらのストーリーのバリエーションの中に取り込むことができさえすれば、生き延びることができる。
物語には展開があり、次の展開を待てる力があれば、今をやり過ごすことができる。
現実と空想のあわい(間)に身を置き、行ったり来たりできる力があれば、何があっても生きていくことができる。

だから、物語を読むことが、物語をたくわえることが、子どもたちには大事なんだ。

なぜ、子どもたちに、かと言うと、大きくなるにつれて知る現実を構成する多くの要素は、
空想や妄想の自由なストーリー作りを邪魔するからだ。

たとえば貧困の構造、経済や政治の構造、教育システム、国の成り立ち、etc.
知識としてのそれを、知れば知るほど、自由なストーリー展開には「待った」がかかる。

ほんとうは、教育も、政治も経済も、貧困も、一断面にしか過ぎず、
まるっと一人の「生活」とか「人生」とかが、何よりも真実で大事なものなのだけれど。
生活や、人生の、部分部分を微分積分すると、教育とか政治とか社会とかの影響をちょいちょいと受けていることに気づくというだけのことなのだけれど。それらの部分は私をまるごと支配し得ない。

貫くべきは、わたしは「どう生きるか」であり(わたしの人生)、わたしは「今日をどう生きるか」である(わたしの生活)。

・・・・

鈴木るりかさん、14歳は、まだ社会の構造を学んでいないだろうし、貧困の諸相も、貧困のからくりも、それが人をどのように損ねたり損ねなかったりするかも、知識としては学んでいない。

それでも、描けるのは、生きているヒトをよくよく見ているからだ。
逆を言えば、生きているヒトをよくよく見ていれば、社会の構造や貧困の諸相やからくりの端緒をつかまえることができる。

ほぼ同時に、井手英策他共著の『大人のための社会科』を読んでいた。
流されないために、ピン押ししておくべき知識はあるなと思いながら読んだ。

もっぱら小説読みのわたしが、読む小説・読む小説を目の前の社会を読み解くチカラに変えることができるのは、
大学生になったいっときバカみたいに1,000冊あまりの新書を一気に読み通した底力みたいなものがあるからだ。

私に限って言えば、順序を違えなくて良かったと思っている。

小学生までの物語読みがあり、中・高生になってそこに随筆・詩・短歌読みが加わり、大学生・社会人初期の新書読みがあり。

ストーリーの蓄えがあったからこそ、人の心に迫る言葉の力への蓄えがあったからこそ、
現実のさまざまな諸相の「知識」を注入しても、人を見る目が「型どおり」にならなかった。

知識を先に蓄えていたならば、細分化したパーツに目が行き、
まるっとそのヒトを見る目を持ち難かったことだろう。



鈴木るりかさんの『さよなら、田中さん』は、そんなことを考えさせてくれる小説だった。

物語を浮かべることのできる彼女のチカラは、子どもたちの誰もが持つチカラだ。
でも、彼女は優れた書き手だ。
浮かべることと、書く事には、大きな大きなハードルがあるから。

だから、書いて欲しい。
どんどんどんどん、書いて欲しい。

子どもたちがその年齢で心に浮かべるものたちを知りたいから。
かつて多数の物語を浮かべて過ごしたあの時代を忘れずにいたいから。

by shiho_kato | 2017-12-08 17:21 | 読書ノート