むむちゃんの散歩道

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2017年 05月 31日 ( 1 )

「自由の相互承認」フィーバー@苫野一徳『教育の力』

新指導要領とか、新たな入試制度とか、森友学園とか、加計学園とか、教育勅語とか、銃剣道とか、共謀罪とか。

なんだか、「教育」の今を知っておかなくっちゃいけないんじゃないか、とにわかに不安になり、重たい腰をえいやっとあげて選んだのが、苫野一徳の『教育の力』
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図書館で行われる国語の授業で、先生が紹介された苫野さんがユニークで親しみのもてる人に思えたので、読んでみたくなった。


P39「公教育の原理(目的)は、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の、<教養=力能>を通した実質化」です。」

の一行を読んで、目が覚めるほどにびっくりしたのです。


そうだったんだ。
(公)教育って、私と、私以外の人たちの自由を認められるために行われるものだったんだ。
これまで生きてきて、初めて知った。
衝撃を受けています。
私がこれまでに学んだりかじったりしきた「教育論」ってなんだったのか、っていうくらい。
ベースにこれがあるって、もっと早くわかっていたら、もっと「教育」っていうものを
我がものとして捉えられたかも知れないのに~~~。


苫野さんのオリジナルじゃなくって、ヘーゲルから始まる原理らしいので、
ようやく私がピンとくるところにたどり着いたっていうことなんだろうか。


特にストンと落ちたのは、「相互の」自由を「承認」する力を養うことが教育って言っているところ。
「私の自由獲得」だったら、ちっともピンと来ない。

「他者の自由を尊重し承認できるようになる」ことなんだと考えるとピンと来る。

私の自由って捉えにくい。ワガママとか自己責任とか、私の自由にかかるフィルターやバイアスが何なのかうまく仕分けられなくて、輪郭を捕まえるのが難しい。
他者の自由はわかる。不自由はもっとわかる。不自由にならないように、自由を阻害しないように。


そうか。他者だ。
だから、ある程度の集団性が必要なんだ。


だってね、
数式も漢字も英語も社会も理科も、
知識だけ学ぶんだったら、個人の方が勉強ははかどるんだもの。

それを越えて(それらの基礎知識を自在に使いこなせるようになることを含んで)、他者の自由を認めることができて、尊重することができて、それでいて自分自身も損なわれない振る舞い方を学ぶための場として「公教育の場=学校」があるのであれば、学校って、けっこう大事な場所だったんだって思える。

(今までどう捉えてたんだ?っていう自問は、ひとまず横に置く)


「「自由の相互承認」の力を養うことを目的とする」
を、頭に置いて、周囲を見渡し、自身を見返し、子どもたちや勤務先や、教育と名のつくあれこれを見渡すと、なんとすっきりすることか。

それを目的としているんだ、とわかることと、
それを目的としているとは到底思えない、ということと、
分けて、右の入れ物、左の入れ物に放り込んで行く。


世の中、なんてわかりやすい。

目的を見失った名ばかりの「教育」が世界を席巻しているから、こんなにいろいろおかしなことになっているんだ。



というわけで、
現在私の頭の中は「自由の相互承認」フィーバーの只中にいる。



(おまけ)
ついひと月ほど前に、友人が、私が興味を持つかもとのことで教えてくれた「この学校でゆくゆくはがつ司書の求人があるかもしれないよ」との報。

よくよく見返してみたら、苫野一徳さんが軽井沢に作ろうとしている「軽井沢風越学園」のことだった。

彼女は、私のことを私以上によく知っているなぁ。
残念ながら、フィーバーはしているものの、軽井沢まで飛んでいくほどフットワークが軽くないお年頃ではありますが。









by shiho_kato | 2017-05-31 23:05 | 読書ノート | Comments(0)