むむちゃんの散歩道

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2017年 06月 05日 ( 1 )

椰月美智子『明日の食卓』、池井戸潤『あきらとアキラ』

現実を映し取りながら、その出来事に「著者」なりの解を与えるから
小説は小説として成り立つのだと思う。

高村薫や山崎豊子(や三浦しをんや原田マハ)の小説は、取材して取材して取材して積み上げて組み立て直して行く。
宮部みゆきや池井戸潤の小説は逆に、作って作って作って現実に寄せて行く。
どちらも、現実では触れられない埋められない空白を想像で塗りつぶしていく、その想像の部分が小説として面白味を作り出している。


現実をペラリと写し取るだけの小説は、小説ではない。似ているようで違うんだ。

そのさじ加減が難しいか難しくないかは、私は読み手であり創り手ではないのでわからないのだけれど、
ときどき、間違って、ペラリと写し取ったものをいくつか並べて串で刺して出来上がりにしてしまう小説がある。

今回読んだ『明日の食卓』はそれ。
椰月美智子の小説は、他のものもその傾向がある。
三人の「いしばし ゆう」くんを育てる母の三つの物語、という設定は面白かったのにな。

池井戸潤が同じ名前の少年たちを描いた『あきらとアキラ』は
設定はベタ(零細企業の息子山崎瑛と、御曹司階堂彬のそれぞれの人生と、その重なりで生まれる物語)で、いつもの銀行物語ではあるけれど、十分に面白くって一気に読んだ。
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こんな現実もあるよと、示すための手法として小説を用いることは、手段としてはありだと思うのです。
が、そこに思い切った強い「私」の解釈が入ってこないと、面白くない。

それならば、ルポで十分と思う。


物語としての面白さを感じることができず、子どもを育てながら感じる生々しい苦しさやしんどさばかりをポンと見せられて終わってしまった。

このところ、批判相次ぐ「ムーニー」のCMみたいな、見終わったあとの封印していた不快感だけが解き放たれて終わる感じ。

伝えたいメッセージの強さが、物語に乗ってきていないんだな。

ため息をついてページを閉じる。ちょっと残念。


by shiho_kato | 2017-06-05 11:20 | 読書ノート | Comments(0)