むむちゃんの散歩道

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2017年 09月 13日 ( 1 )

山崎ナオコーラ『母ではなくて、親になる』

でかした!山崎ナオコーラ!!!

タイトルからして、気が合っちゃうんじゃない?もしかして??
って、期待していたのです。
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期待以上だ。

以下、雑駁なメモ。
(今年に入って、読む(摂取)スピードと、それを吸収して書く(吐き出す)ところに時差が生じすぎる。
いったいどれほど思考を無駄に排出しているんだろう・・・)

・ジェンダーとかフェミニズムとかについて
実際に社会の中で立ち働いていると、そういう言葉でくくって物事を考えない方が、実際に生じているあれこれを正確に理解できる気がする。
なので、女性論みたいな本、ジェンダー論みたいな本は、敬して遠ざけることにしている。
ある程度の解釈する尺度みたいなものは、おそらくこれまでの蓄積でまだ対応できるだろうし。

で、私は好きじゃないんだ「イクメン」って言葉。
妻のサポートとか、バカじゃないの。サポートってなに?
スタジアムの客席でわーわー言ってるだけのサポーターに世間様が位置づけ、その活躍をもてはやすから勘違いが本違いになる。
妻も夫も、子どもの親として「フィールド内」の対等のプレーヤーだ。
と、以前にも書いた記憶がある。
日本の親の育児時間の性差は相変わらず。
たかだかサポートだけで、プレーヤーを気取れる甘さが蔓延しているからだと思っている。

父とか、母とか、ある程度のイメージがこびりついてしまった言葉にあぐらをかいてはいけない。
子どもが生まれた瞬間から、親は親なんだ。そして、24時間365日、親であることからは逃れられない。
「うちに帰れば」親の顔ではない。ひとり親になるとよくわかる。私は母でも父でもなく親だ。
子どもたちが日々を過ごすために、彼らより長生きして彼らよりできることの多い大人として、大人にしかできないことを毎日毎日こなし続けていくのが親だ。
そこに何をか「役を演じる」ような余地は無い。

そういうことをガンガン言いたいわけだけれど、きっとガンガン言ったら、戦うフェミニズムの旗みたいなのを振りかざしているように見られるばかりで、その「戦う」も、ほんとイヤなんだな。
ナオコーラは、自らの文体と筆運びで、ガンガンガンガン言えばいいと思う。

彼女の小説にもそれらが織り込んで書かれているけれど、残念ながら小説よりも、エッセイの方が、筆に力がある。私の見立てでは、エッセイの方が、彼女には、あっている。

・非・仲間作り
私は仲良しごっこが苦手だ。
おそらく、書きながら気づいたのだけれど、演じるのが苦手なんだ。
妻を演じることは失敗したし、母を演じることも放棄しているし。
演じるのが苦手な人は、ごっこ遊びはできない。
必要な情報をくれる人はくれる人、こちらの思うところと気が合う人は気が合う人、そういう関係性をはっきりさせずに、一緒に居るという理由だけで仲良く立ち回ろうとすることができない。

ナオコーラがこのエッセイの終わりに、
「育児者同士でつながって、子育てしやすい社会を作ろうというのではなく、「育児に関係ない生活をしている人も楽しんでくれる面白い読み物を書きたい」」
と、記していたけれど、育児者同士であっても考えが合う合わないがあり、育児に関係ないところに居ても子ども観や人間観、生活感が合う人がいる。そういう人と共感し合えればよい。

・障害、病気の考え方
この本を読んで、きっぱりと言い切られていたからこそ、ハッとさせられたのは、彼女の病気や障害への考え方だ。
「成熟した社会においては、病気になった過程を問うてはいけないのではないか」
「成熟した社会では、困っている人がいたら、理由を問わずにみんなで援助する。その人がどうやって生き難い状況になったのか、それを問題にしてはいけない」

子どもの貧困を学んでいると、そこに生まれた子どもが貧しい生活を送ることになった理由や原因を問うことは、まったくもって意味が無い。望む望まざるもなく、そこに育つしかないわけだから。
理由、原因を問わずに、いまそこに居る子どもたち、あるいはその家庭に、家族に何ができるのか、どうできるのかを、フル回転で考え、対策を立て、今後を描き、寄り添っていくしかないんだ。

ひとり親になった理由や原因を問うことは、本当に不毛だ。
望んでそうなったわけではない。「どうして」と問われ、そこに答えらしきものを提示しようとすればするほど、これまでの道筋は歪んだ理解に変遷していく。掘り下げれば掘り下げるほど、私がアホだった、と、過去に遡ってやり直さなくてなならない気持ちになり、ひいては、いま目の前に居る子どもたちを生んだ過去すらもバッサリと否定しなくてはならなくなる。
ひとりでどうやって、子ども二人を育てていくのか、いけるのか、ただそこだけが問題なんだ。

ナオコーラの文章を読んで、スパッとそう思えて、なんだか救われた。
そう、成熟とはそういうことだ。
受け皿の幅が広くって、人に対して、物事に対して、よゆーのある状態のことだよね。
きっぱりと言い切ってくれたから、よくわかった。


おまけ
文中に紹介されていた、村上春樹著の『村上さんのところ』「批判に対しては、規則正しく生活すると良い」に、ナオコーラが共感していたけれど、すごくわかる。批判に限らず、ありとあらゆる揺さぶり(いいことも悪いことも)に、耐え得る(凌ぎ得る)体幹は、規則正しい日々によって鍛えられる。楽しい日も、不安な日も、ツライ日も、悲しい日も、苦しい日も、嬉しい日も、つまらない日も、目まぐるしい日も、願わなくたって揺さぶりは四方八方から訪れる。どんなに揺さぶられたって、死ぬまで生きていかなくてはならないのだから、耐えうる力は持ち合わせていた方がいい。






by shiho_kato | 2017-09-13 11:19 | 読書ノート | Comments(0)