むむちゃんの散歩道

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カテゴリ:私ノート( 554 )

田奈高校図書館のぴっかりカフェと、学校図書館と子どもの貧困

田奈高校の図書館で行われている「ぴっかりカフェ」 の試み、
ここ数年、お訪ねしたいものだと思いながら、機会を逃している。

ぴっかりカフェについて、かいつまんで言うと、
図書館の一角で、週に1度、飲んだり食べたりおしゃべりできるスペースを設け、
学校の先生ではないオトナ(司書と、NPOパノラマのスタッフやボランティアさん)が、
カフェ風の場をひらく試み。

本を媒介にする、という言い方はよくあるけれど、
図書館そのものを媒介にして、外の風を取り入れる試み。


いま、子ども食堂とか、無料学習塾の活動とか、様々な背景や困難を抱える子どもに「リーチする活動」を地域で行う視点はずいぶんと広がりを持ってきたけれど、「そこに行く」場を移すことへの子どもたちのハードルは大きい。
(子どもの支援でも、どんな支援活動でも、必要な人に手を伸ばし手が届くところが一番難しい)

日常の中に溶け込むように、行われることがベストだと思っていたところで、
学校の中にある図書館で、「リーチする活動」を行うなんて理想的だと思ったんだ。


3学期がはじまって間もなく、そのぴっかりカフェについて、にわかに賛否両論の議論が始まっていた。

ぴっかりカフェの可否、是非は、田奈高校の生徒が決めることで、
生徒では無い人たちの意見など、耳を貸さなくて結構と思っている。

それは他の学校図書館にも言える。
その学校図書館の可否、是非は、その学校の現在所属している教員、生徒が決めることで、
それ以外の人たちの意見は、あくまで参考に過ぎない。

その立場から見ると、ぴっかりカフェの試みがこれだけ続いてきていてこれだけ集まってくる生徒が居る。
それそのものが「評価」とみるべきだ。

そして、ぴっかりカフェ云々ではなくって、図書館のヘビーユーザーであり、
誰かとつるんで図書館を利用したいとは決して思わない、一人の時間を邪魔するな、と思いながら図書館を利用してきた私としては、ぴっかりカフェのような活動を、「邪魔」とは思わない。

光が強いと、影も濃くなる。
ぴっかりカフェのような光る場所があれば、こっそり過ごせる影の場所のこっそり度もあがるんだ。

みなの注意を集めてくれる場所があれば、みなの視線が向かない場所もまたしっかりと確かなものになる。

もしも私が田奈高校の高校生だったとしたら、週に一度の「ぴっかりカフェ」の日は、
こっそり隅っこに忍びこみ、誰も私に注目することが無いことに他の日以上に安心しながら、
カフェに集まる人たちの様を耳ダンボで観察しつつ自分の世界に没頭するに違いない。


ひとりを愛する人間にとって、最もジャマくさいのは、
「ひとりで居る」ことを見られる眼差しであり、声を掛けられるかもしれない恐怖である。

今、私は生徒ではなく大人で、図書館の番人のような仕事を数年に渡ってしてきているからわかるんだけれど、
大人という生き物は、「声をかけない」で見守ることができる。
どうか、邪魔くさい視線を感じませんように、どうか、声を掛けられるかもしれない恐怖を感じませんように、
と、息を殺しながら、そうではない生徒とは和やかにおしゃべりをする努力をできるんだ。

田奈高校の司書さんは、私なんかよりもずっと感度のいい立ち回りのよい方に違いない。


そんな私の邂逅や理解やらは、やっぱり横に置いて、
田奈高校のことは、田奈高校に任せよ。



そして、もひとつ、付け加えておきたい。

「ぴっかりカフェ」の試みは、どこの学校図書館でも行えるものではなく、必要性のあるものでも無い。
ある学校においては、図書館以外の場所のほうがふさわしい場合もあり、
ある学校においては、学内に必要ですらない場合もある。
また、カフェ型じゃない試み方で、実施されている学校図書館もあるだろう。

簡単に真似られるものではないんだ。


このところ、子どもの貧困への注目がにわかに集まり(にわかにと言っても、もう10年近く続いているので、いっときのブームに終わるということが無くて良かったと思う)所得格差や教育格差への関心が深まる中、
学校図書館が子どもの貧困に資することがあるのではないか、と、熱く語る方々もいる。

私は、にわか熱に浮かされる人たちが苦手だ。
浮かされた人たちの弁舌の中身以上に、その熱量が危険だ。
大事なことは、冷えた頭で考えるべきだと思うから。
そして、私自身が、うっかり、カーっと熱を上げダーッと突っ走ってしまう体質であることを知っているから。

なので、いま、周囲ににわかに増えている「学校図書館と子どもの貧困」の言説に、警戒心でいっぱいなのである。


うっかり間違えて欲しくないのは、
学力をあげる「ため」に、図書館はあるのではない。
学力が高い子どもを育てる「ため」に、図書館はあるのではない。
子どもたちが「面白い」に出会える場としてあるのである。

それは、どの子どもたちにも等しく、たとえ学力が劣り、家庭的に問題があり、経済的に低所得の家庭の子どもであっても、「面白い」に出会えることが、何にも増して優先される。
家庭に問題があるから、学力が追い付いていないから、この格差を埋めるために「図書館でもその手助けを」と思ってしまったら、間違いだ。

家庭に問題があろうが、学力に問題があろうが、経済的に困難を抱えていようが、
「わ、何、これ、面白い!!」と、思えるものと出会うことを保障することが、
学校図書館の第一義だと考える。

憲法に「文化的最低限度の生活」と書かれている。
この「文化的」が生きるうえでの底力(底辺を支える力)だからだ。


私の短い司書歴でははかれないけれど、きっとそれは、格差の問題が今のように社会問題として取り上げられる以前からの、長きにわたる学校図書館の使命では無かったか?
要するに、かつてからの使命を、きっちりと、どの子にも果たすこと。それだけなんだ。

そのために必要なのは、安心と安全。
そして自由の保障。

ここは安全な場所といえる空間をどう作れるか、
ここに来れば安心よというメッセージをどう届けられるか。

そのうえで、何か支援ができるのだとしたら、
その子の身近に、安心できる場を探すこと、安全を確保する方法を知ること、
その子を不自由にしいてる呪縛から解かれるためのヒントを探すこと。

学力云々につながる「読む力を」なんて言うのは、そのさらにずっとずっと先のお話。



ちんたら書き継いでいたら、ぴっかりカフェを運営しているNPOパノラマから、
1月17日に声明(?)が出されましたので、リンク追加しました。


by shiho_kato | 2018-01-16 18:49 | 私ノート | Comments(0)

作家LIVE11月「谷川俊太郎さんと俵万智さん 朗読とトークの夕べ」

谷川俊太郎と俵万智の対談なんて、
なんてなんて贅沢な組み合わせ。

それを無料で聴けるなんて。

抽選だったのか、抽選にはならなかったのかわかりませんが、
日曜の夜に朝日新聞本社へ出かけてきました。
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言葉は、意味だけではなくて音である。

これだけデジタルな社会になると、ぐるりとまわって肉声は、貴重で価値のあるものになるのでは。


そのふたっつのメッセージを、ふたりのお話から聞くことのできる1時間。

それぞれに、一冊ずつ、自身の翻訳した絵本を朗読。
俵万智の朗読は、ほんとうにステキだ。

少し低めの落ち着いた声。
あたたかさもやわらかさもありながら媚びない。
景色が、心の様子が浮かぶ。
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かつて20年以上前に私に
日本語を、読みながら書きながら音の聞こえてくる言葉であることを教えてくれたのは
谷川俊太郎だ。
音の聞こえてくる言葉を書くことを教えてくれたのは、
谷川俊太郎だ。

そのまま20年を過ぎ、書けるかどうかは断言できないけれど、読みながら音の聞こえてくる文章が好きだ。


かつて30年前に私に
心をよぎるあれこれを真空パックにして永久保存するための言葉を教えてくれたのは
俵万智だ。
「いま」の気持ちを言葉にすることを大切に、、、の思いは、
「いま」の自分を大切に、、、に、スキップして、
私の中に立ち現れる言葉は、私を守ってくれた。
最近ではすっかり怠け者になってしまって、とどめおくことなく流してしまっている。

それだけ、「一生懸命自分を大切に」と思わなくても良くなった証しかもしれず、
それだけ、私よりも大切な者たちをこそ大切に、と転じたのかもしれず、
でも、少し前にゲラゲラ笑って読んだブログの記事などを見ると、
私よりも大切な者たちに、大切なんだよ、と伝えるのは、そのときその瞬間の言葉たちであったことに、いままた気づく。


そんなことをゆっくりと考えることのできる時間を過ごさせてもらった。

時間を止めることができる。
そういうちいさな余裕が、ふたたび私の人生のステージに、とり戻されつつあるんだなー。
生きてみるものだ。


by shiho_kato | 2017-11-12 21:20 | 私ノート | Comments(0)

貴重な平日のお休み ー増田明美さんとパラリンピックー

文化祭の代休で、貴重な平日休み。

午前中は青空の下、皇居をてくてく走る。紅葉がキレイだなぁ。
いつの間にか、秋のいちばんキレイな季節を迎えていることに気がついた。

仕事以外で、講演会に出かけるのは久しぶり。

増田明美さんがコーディネーターで、明るい語り口に明るい気持ちになる。
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車椅子卓球の別所キミエさんがパネラーのひとり。テレビ越しでは無い別所キミエさんははじめて。明るい楽しい方。
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テーマは、パラリンピック競技の価値をどう伝えるか。価値をどうパラの競技者関係者以外の人たちと分かち合うか。

北澤豪さんもパネラーで、ブラインドサッカーでもデフリンピックのサッカー競技でも、身体障害を有する人のサッカーでも健常者とともにプレーする機会はほぼほぼ無いとのこと。
マラソンは、フツーの市民大会でも伴走者をともなった視覚障害のランナーがいっしょになって走っている。聴覚障害や精神障害を有するランナーさんには障害があることに気づくことも無く、共闘しているんだ。マラソンは、パラとオリの親和性の高い競技なんだなぁ。

増田明美さんや、北澤豪さんや、高橋尚子や、野口みづきや、活躍した選手でマラソンを走れる人たちが、こぞって東京マラソンで視覚障害のランナーの伴走者をすれば、一気に注目度はあがるんじゃないのかなー。

と思いながら聞いていたら、別所キミエさんが、
「石川佳純ちゃんと、車イス卓球で対決してみたい!!」

そうだそうだ!!
愛ちゃんも、水谷も、美誠ちゃんも、美宇ちゃんもだ。
とってもとっても観てみたい。


伴走ランナー、練習会に参加するのが高いハードル。
でも必ずいつか。
決意を新たにしたのでした。


私のため、だけの、いい休日になりました。




by shiho_kato | 2017-11-07 18:31 | 私ノート | Comments(0)

選挙について、グダグダ思う。

選挙当日は、台風迫る大雨の中「奥武蔵・もろやま仰天ハーフマラソン」に出かけた。
滝のごとく水の流れる山の中を雨に打たれながら21km少々走って来た。
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人生の社会の不条理さ不可解さに比べれば、風雨の中を走るなんざ、わかりやすくて健康的に過ぎる。

少し前まで、雨の中だよ、台風だよ、この中走るなんてバカなの?バカなんじゃないの?って、思っていたのに。やればできるどころか、「え、走んないの?つまんない」くらい言ってしまいそう。
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しがない一票の結果よりも、この日の21kmを走ったことのほうが、私の人生をはるかにはるかに力強く支えてくれる。



******

と、いう訳で、期日前投票のはじまった一週間前の日曜にさっさと投票を終えた。

だって、選択肢、迷うほど無いもの。
積極的に入れたく無い人や党をはずして、残ったものの中から、消去法で選ぶくらいしか。

最高裁裁判官の国民審査だけは、投票所で紙をもらってから、
「考えてきて、出直します」って言いたかった。
だって、すっかり忘れていたから。

こっちの人たちの信任不信任を考える作業のほうが、衆議院議員投票よりも面白かっただろうな。
出直しがきかなかったのは残念だ。


選挙の結果には、今さら何も期待しない。
有権者の半分しか投票していなくて、その中の過半数を得ても、有権者の25%。
それで、「支持を得た」と大語するのはどうだろう。

選挙区割の仕組みのトリックで、当落が決まって、その仕組まれた当落の当の人たちに、私たちの社会の制度をあれこれされるのだ。

どれもこれもリアリティも説得力も感じられない。
選挙ってほんと虚像だな。


私が、今回の選挙結果で、この数字がいちばん信じられると思ったのは、ツイッターごしに知ったこれ。
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投票数にならして議席数を数えたもので、ドント方式というらしい。比例代表の選挙方式のこと。
小選挙区なんてやめて、全部比例代表にすればいい。

わが地域の命運を背負って国会に行っとくれ、なんていう議員は要らない。
と、私は思う。しがらみってヤツで、自己利益、自己の票田利益、自己の地方利益になることしか考えない、それ以外は居眠りばっかりの国会議員を一定数確保するだけじゃないのか、って。
少なくとも、千葉に居た時も、現在も、我が地域を背負ってくれる輩だとは、ひとっかけらも思わないから。あなたに託すくらいなら、私が自分で信頼できる人を見つけて相談するよ、ってくらいに。



どっちにしても、もっと投票率の高い選挙の結果だったら、それなりに社会への影響力を持つ集団として捉えなくてなはならないと思うことができるだろうけれど。
「国会議員」とは有権者の半数にディスられた人たち。

彼らがすることすべて、信じる気にも従う気にもなりはしない。


私の周囲には、
「投票なんか行くわけない、あんなものは意味無い」と毎回豪語している人は今回も言い、
「投票?行くわけないじゃん、台風だよ」とのたもう人がいた。

どちらも子どもに聞かせる声だったから、止めてほしいと、心中思う。


この仕組みのどれも支持できないけれど、その仕組みで進む国にいま立っている身としては、ほんのひとっかけらであっても、私の意思は表明せねば。

意思の無い人間は牛耳りやすいんだよねーって、国会に住まうキャツらに舐められるのはまっぴらゴメンだ。


何よりも社会に対する憤りが沸いたときには、「なんか、おかしいよ」「なんか、ダメだよ」「やめてくれないかな」ってこんなしょぼいブログでも言いたいことは言いたいわけで、
それを躊躇なく言うには、「私は投票したよ」ってのが私自身に対して免罪符になる。


「免罪符」っていうのは、つまり、親世代から延々と続くおかしな仕組み、負の遺産に対し、私はしょっちゅう腹が立つのだけれど、いま下の世代から「あなたたちが変えてくれなかったからエライ迷惑してる」って突き上げられる年齢になり、せめても「変えてくれない輩を落選させるアクションは取った(紙っきれ一枚でも)んだけどね」っていうそれ。




意見表明権の行使として表明できる意見は限定的でちっぽけ過ぎるし、ほんと意味あるのか不確か過ぎる制度だけれど「あなたの意見を聞かせてください」ってのが選挙だから、うつむいて押し黙らずに、「あなたなんか選ばねーよ」「あなたたちの言うことなんて信じねーよ」ってきっぱり書いてのける(もちろん実際は選んだ人や党の名を書くのですが)ことはしておかないとなって、思う。


陰口ばかりグチグチ言い募り、いざ「どうぞあなたの意見を聞かせてください」って場でうつむいて押し黙るのは、カッコ悪いから。




しがない一票も、無碍にしないし、易易と捨てない。
捨てるときは、この国を去る時と決めている。

いちおうね、この国を構成するひとの一人としていま、ここに生きているという自覚があるから。

by shiho_kato | 2017-10-22 18:44 | 私ノート | Comments(0)

文藝春秋社長殿へ ー日本図書館協会「全国図書館大会」ー

文藝春秋の社長さんの「文庫は図書館で扱わないでください」
の話をじかに聞くことができた。

文芸書は月に20冊、新刊を出すことになっている(単行本)。
黒字になるのは、20冊中、3~5冊程度だそうだ。
各5000部発刊し、そのうち3分の1出ればトントン、1500部ちょっとか。
赤字になる分を埋めるのが、文庫の売り上げ。
その文庫の売り上げがどんどん落ちていて、赤字を埋められなくなっている。

そこで「文庫は図書館で貸さないで」というお話になったそうです。
図書館で貸さなければ、購入数が伸びる数値的な根拠は無いそうだ。
でも「文庫は買って読む」という読書マインドを行き渡らせることをお願いしたいんです、と繰り返していた。

経営上の問題は門外漢なので、いうべきことが無いのですが、その新刊本20冊を半分に減らしたらどうか?
黒字になる3~5冊をのみ選び出して、発刊するという目利きはできないのかな?

挿話のなかで、芥川賞受賞作家の受賞後の作品は、図書館が資料保全の目的で必ず買うので、公立図書館の数1,500部は自動的に買われるため、単行本としては黒字展開となるそうだ。


本を読む裾野が広がらなければ、本が買われることは無いので、とにかくも本が身近で親しまれ、読むことが日常になる文化が醸成されることが理想だろう。
それは出版社にとっても、図書館にとっても、本屋さんにとっても、等しく願うところに違いない。


*・・*・・*・・*・・*・・*

その話を聞いたのをきっかけに、勤務先の図書館で文庫がどのくらい利用されているか調べてみた。

貸出総数のうちの文庫の割合である。
2012年度 35%
2013年度 39%
2014年度 40%
2015年度 34%
2016年度 38%
2017年度 42%(4月~10/20現在)
増減はあれど、どの年も3~4割を占めている。


文芸書にしぼった貸出数のうち、文庫の割合で見ると、
2012年度 64%
2013年度 61%
2014年度 65%
2015年度 64%
2016年度 62%
2017年度 65%
文芸書を借りる場合、6割以上は文庫本で借りていることになる。

所蔵する文芸書全体に占める文庫本の割合は40%なので、単純に数字の上で見ると、
単行本よりも文庫本を選んで借りる割合が高いと言えるだろう。


個人的には、学校図書館において子どもたちが読むことを習慣化するために、文庫の手近さは欠かせない。
教科書やら部活やらで彼らの荷物は重量級だ。そこに入る余地のある大きさの文庫であるからこそ借りられる。

手狭な学校図書館で、より多くの本を並べようと思えばそのコンパクトさは魅力であるし、
予算僅少な学校図書館で、より多くの本を購入しようと思えばその安さに助けられている。


ところで、2013年に、文藝春秋90周年記念「高校図書館「文春文庫」プレゼント」という企画が行われた。

勤務校の図書委員会も応募し、当選し50冊を寄贈していただいた。
その50冊は、この4年間で122回借りられている。

寄贈書を選ぶにあたって、生徒たちに文春文庫リクエストを呼びかけ、
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寄贈いただいてからは、文春文庫コーナーを設けた。
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このときに寄贈いただいた池井戸潤はもちろん、乾くるみや三浦しをん、横山秀夫etcは、その後発刊された小説も引きつづき購入している作家たちだ。



共存、だよなー。
その作戦を、書店も出版社も図書館も共に立てる場所が必要なんだと思う。

by shiho_kato | 2017-10-13 22:37 | 私ノート | Comments(0)

越後湯沢秋桜マラソン

9月はダメージのある月らしい。

夏休みのダメージ。
夏の暑さのダメージ。
二学期の始まったダメージ。

9月の第3週に行われる「越後湯沢秋桜マラソン」
秋桜の名に引かれ、東京からは日帰りで行けるらしいことにも引かれ、過去に3度エントリーして、一度として走ることができなかった。
体調が優れなかったり、予定が混み合っていたりして。
今年4度目にしてようやくスタートラインに立つことができた。
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・・・・・


越後湯沢までは東京から新幹線で一本70分。
お昼過ぎに出発して3時過ぎに越後湯沢着。
駅ナカの事前受付を済ませ

駅から徒歩10分足らずのロープウェイ乗り場へ向かった。

ロープウェイを登ると、
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広々とした山間に、


ボブスレーがあり(700円)
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リフトがあり(無料・乗り放題)
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ゴーカートがあり(500円)
アスレチックがあり、植物園があり、ヤギに触ることもできる。
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2,000円でピザ作りを体験することもできるらしい。

子どもたちと一緒に来たら、楽しいこと間違い無しだ。
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ここならば、ぴぃちゃんでも来られるかな。
ここならば、ぷうちゃんは一日遊んで遊びつくせるかな。
みぃちゃんとむむちゃんはピザを作るっていうかな。
(高尾山に行っても、大山に行っても、箱根に行っても、行く先々で子どもたちを連れてこられるかどうか、特にぴぃちゃんが一緒に行くことのできる場所かどうかを、吟味してしまうんだ)

そんなことを思いながら、ぐるりと一回りして、遊べるところで遊び、最終のロープウェーで下山した。

ロープウェー乗り場に、宿泊するNASPA越後湯沢の送迎バスが迎えに来てくれて、
そのままホテルへ。
夕食はバイキング。大きな温泉があり。

このあたりは、観光というよりも、冬にスキー客で賑わう場所だ。
なので、遊ばせ慣れているつくりになっているよう。

通路は広いし、お部屋も広いし、温泉も広いし、スキーの大荷物を持参する人向けの送迎体制ができているのだと思う。

翌日はマラソン会場への直通バスがホテルから出て、帰りも駅からホテルへのバスが出る(乗車時間は10分弱くらい)。
荷物もマラソンが終わる時間(2時)までお部屋に置いておくことができ、走ったあとに温泉に入ることもできた。いたれり尽くせりだ。
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さて、4年越しで出走できた越後湯沢ハーフマラソンは、坂をのぼり、坂を下るコース。
のぼりくだりと、暑さとを掛け合わせ、なかなか手ごわかったけれど、手ごわいなりに山も川も木々も秋桜も里も稲穂も駅前も、楽しむことのできる飽きのこないコースだった。
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走り終えて、ホテルの戻り温泉に入ってさっぱりして、
お昼ご飯は新幹線の中だったけれど、4時前に東京駅に着いた。


一泊二日で十二分にしっかり遊んで、しっかり温泉につかって、しっかり旅気分を味わえる。
次にこの大会に出るときには、ぷうちゃん一緒に行かないかな。
ぴぃちゃんやまりちゃんたちも一緒に行かないかな。




by shiho_kato | 2017-09-24 18:47 | 私ノート | Comments(0)

「守・破・離」

茶道の先生が亡くなられた。
御年満年齢で97歳だったそうだ。


堅苦しいのは苦手だ。
茶道を続けることができたのは、先生の柔らか頭の教えのおかげ。
千利休の教え「守・破・離」
先生は、その「離」の楽しさを当時学生であった私たちにも存分に味あわせてくれた。


茶道の型は、合理的にできている。水が流れるように所作を流せると正しい型になる。
右に左にバタバタしない。近いところの近いものに順に触れていく。
きわめて静かな動。

そのシンプルさが好きだ。

シンプルを身に染み込ませると、「離」の自由。
「型」は極めると、「離」になる。


茶道ばかりでなく、生活もそうだと思う。

毎朝同じ時間に起きて、同じ時間に朝食を食べ、同じ時間に出かけ、同じ時間の電車に乗る。
毎日毎日、それの繰り返し。

その繰り返しのベースが、時々のイベントごと足腰を強くする。

どこに戻るべきかを体がよくよく知っているから、
そのときばかり大胆に踏み外してみる楽しみがある。

退屈な毎日ではなく、シンプルな毎日。

もしも毎日を積み重ねるのがしんどいのだとしたら、負荷が大きくなっている証拠だ。
何かを減らして、淡々と転がせる毎日に戻していく必要がある。


佐藤先生に教えていただいた茶道は、私の内に一本すっくと柱を立ててくれている。


お通夜も告別式も平日だった。
仕事帰りにお通夜に駆けつけた。

手を合わせ、お焼香を済ませ、失礼させていただいた。

いつもより1時間あまり遅い時間に帰宅すると、お風呂を澄ませたぷうちゃんとむむちゃんが、
用意しておいておかずに、むむちゃんの茹でた素麺でお夕飯を食べていた。

いつもと違い、自分たちで用意して食べるお夕飯。
早くから余裕をもって動きだし、先にお風呂に入ったそうだ。

毎日毎日積み重ねている「守」があるから、
こういうときに順序を違えた工夫をする「破」が発揮される。

いつか、ひとりひとり、自ら生活を築き上げる大人になったときに、
大崩れしない「守」が、日々身に染み渡って行きますように。




佐藤先生、ありがとうございました。
合掌



by shiho_kato | 2017-08-30 22:38 | 私ノート | Comments(0)

小説ばかりを読んでいる

なんだか小説ばかりを読んでいる。
以前からそうだったけれど、拍車が掛かっているというか。

この夏はラノベとの境目っぽい、中高生とか大学生が主人公になるお話ばかりを読んでいた気がする。


仕事上の選書では、小説を選ぶことの方が圧倒的に少なくて(割と新しい小説については出版情報が入りやすいので、選書にかける時間が少ないというのもある)、自然科学、社会科学、いまの社会の動きの中で知っておくといいだろうなーと思うもの、彼らが興味を持っているらしかったりこのところ勉強しているらしいことの周辺を開拓しようと、本を選ぶ。

選んだ本の全てとまでは言わないまでも、どんな内容なのか概要だけはさっと目を通してチョイスするので、すぐに忘却ボックスの中に入ってしまうにしても、一度は「見た」もの。

日々、その作業を積み重ねていると、タイトルと内容を「見た」だけで、読んだ気になる。
つまみ食いだけで、お腹いっぱいな感じで、しっかり味わって食べる気にならない。
いいんだか、悪いんだか。


小説は、さっと目を通すだけではなかなかお腹いっぱいにならない。
美味しそうであれば、ちゃんとはじめっから読みたくなってしまうのだ。
きっと、素材が同じであっても、登場人物の性格付け、物語の運びに同じものが無いからだ。


小説ばかりだではダメだよね・・・と自嘲気味に思っていたら、
こんな言葉と出会った。


為末大
「人間は現実ではなく、物語を生きている」というのが、私の競技人生で学んだことだ。現実に起きた事は変えられないが、物語はいくらでも変えられる。そして物語が変われば、過去も未来も、風景が違って見える。
47NEWS「為末大の視点」2017/08/23


どの人も、どの人も、プログラミングされた人生は無く、
一年後どころか、ひと月後も一週間後も一日後も、一時間後ですら、約束されていない。
どの人も、どの人も、レールのない人生を生きている。(敷かれたレールを生きているつもりになっている人もいるのだろうけれど、そんな人とて自身の寿命までコントロールすることはできない)

それを生き抜くには、今ここにいる自分を「捉える」あるいは時によっては「支える」ための、私を主人公としたストーリーを構築できる力が必要なんだと、40数年生きてきてつくづく思う。



そして、私だけではない、他者の生に心傾けることが、たったひとりで生きているわけではないこの地上で、絶対に不可欠な作業だ。最も近しい人たちでは、子どもたちもそう、パートナーもそう、父や母でさえもそう。

他者の生に心傾けるとは、彼らの描く彼らを主人公とした物語を読み理解することだ。

その体幹となる力を、私は「小説読み」から得ている。
混沌としたあれやこれやをどう組み合わせて、解釈し、時を進め、展開させていくのか。
そのバリエーションは、本当に文字通り十人十色。1%も、0.00001%すらも一致することはない。
好き嫌いはある。
だけれど、理解するという点においては、どんなバリエーションも知っておきたいと思う。

だって、未来は予想不可能、人の生は予想不可能で、近しい人たちのそれだって予想不可能だ。それを百も承知で、子どもたちや父母や友人たちの生と、共にありたいと私自身が強く願っているから。







by shiho_kato | 2017-08-23 22:13 | 私ノート | Comments(0)

卓球部の同窓会

卓球部の同窓会。

第一部 10時から4時まで、ひたすら卓球三昧。
第二部 6時からはお店で飲み会。

二年前には第二部だけ参加した。
今年は第一部に参加。

むむちゃんの中学のPTAの、おとなの部活で卓球をやりはじめたら楽しくて。
打てる機会が楽しみで。

懐かしの体育館。
高校の思い出は、部活三昧。
部活の記憶は、なぜか、夏の印象が強くって。

現役の高校生から、70歳の大先輩まで、100人くらいは来たのかしら。
相変わらず女子は少な目だけれど、昨今の卓球ブームで今年は女子8人もいるんだとか。
少子化にも関わらず、千葉県の高校生の卓球人口は私の頃とおんなじ。
つまり、割合だけ見れば増えているっていうこと。

知らない先輩、後輩には、あいも変わらず人見知りだけれど、
同じ時期に一緒に部活をやったメンツで、ぐるぐるぐるぐる、ひたすら打ち続けた。
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学校で教員をやっていて部活の顧問をしている人も少なくない。
技術はさておき、おのこたちよりも、私が一番タフだった。
ランナー、体力だけはいっちょ前でした。

楽しんで楽しんで、今年の夏の思い出をひとっつ。
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by shiho_kato | 2017-08-14 19:59 | 私ノート | Comments(0)

この夏のおとなの部活 ー卓球編ー

むむちゃんの学校のPTAの活動のひとつとして、卓球を始めた。
6月から。週に一度、2時間弱。

久しぶりにラケットを握り、球を打つ。

嬉しくて、楽しくて、夢中になってしまう。
もっと、もっと、もーっとやりたい。

むむちゃんの同級生のお母さんが、仕切ってくださる。
小学校の頃から一緒だったのに。
今まで、数えるくらいしか言葉を交わしたことがない。

あっという間に、親しくなる。

卓球、好きだーーー!の気持ちが一緒だってわかるから、安心して親しくなれる。

おとなになるっていいなー。
好きでつながりやすくなる。

by shiho_kato | 2017-08-05 16:19 | 私ノート | Comments(0)