むむちゃんの散歩道

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カテゴリ:読書ノート( 602 )

木下通子『読みたい心に火をつけろ!』

学校司書の大先輩の本。
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ビブリオバトル企画で、ガンガン前に出ている司書さんなので、
敬しつつ、すこうし距離を置いていた。

本も、直ぐには手に取ることができなくて、
じわりじわりじわりと、自分の中で追い詰めて行って、さすがにもう読まないと先に進めないや・・・
煮詰まったところで一気に読んだ。


本を読むのが苦手な生徒も来る学校図書館を、当たり前のものと捉えているところに、安心する。
小説や物語から、はじめたい、それがあなたに寄り添ってくれる存在だから、という考え方にも、安心した。


読めずに置いておいた時間、読み進める時間、そして読み終えて、
あぁ、私は「学校司書として、私どうなのよ」と、揺れてるんだなぁ、と気づいた。

この本の中に「安心」がひとつ見つかるごとに、胸をなで下ろしながら読んだ。


*****

「仕事をするイメージ」とういのが私には欠落している。
そもそも、働く人になることを想定して、人生を組み立てたことが無いまま、
気づいたら「NPOの人」になり、NPOで「働く人」になり、「ワーキングマザー」になり、「学校司書」になり。
そのどれもこれもが、イメージトレーニングを積んで積んで積んで、の結果ではなく、
期せずして振り返ったら、そういう場に身を置いていた、というのが実感に近い。

いまの勤務先で、このポジションに置かれてこの役割を与えられ、
こういうことが必要で望まれている(と、汲み取って)、それに即した働きをしよう。
日々、そういうことで働いている。

その働きの内容が、割とおおむね学校司書としてするべき仕事に合致しているようだ、と我が身を振り返る。
しかし、ここから先のビジョンというか、どこに向かっているのか、行くのか、灯台のようなものを持ち合わせていない。


学期中は、学校司書としての灯台云々よりも、この学校にとってのこの場所の有意性、有用性をどう捉えるかに気持ちを集中させていられたのだけれど。
学期が終わりフツフツと湧いてくる「学校司書の人たちは何を見、何を目指しているのだろう」「それは、私がやりたいことと合致するのだろうか」「そもそも私のやりたいこととは何だろうか」「いややりたいことよりも生活していける仕事をきちんとすることこそが今は重要ではないだろうか」「生活のための仕事云々よりも、子どもたちの今に立ち会えるかどうかが大事だろう、時間こそ、最も取り戻しのきかないものなのだから」等々。
歯止めをきかせるエネルギーが弱体しているので、ぐるぐると巡っている。








by shiho_kato | 2017-07-29 21:23 | 読書ノート | Comments(0)

成田康子『学校図書館デイズ』

札幌で学校司書をしている成田康子さんの、学校図書館本。
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直ぐには読み出せなくて。
しばらく寝かせて、おそるおそる、そろりと読む。

学校図書館にやってくる子どもたち、ひとりひとりを描く。

そう、ひとりひとり、なんだよね。
彼女にとってのこの場所、彼にとってのこの場所。

観察し、見守る、成田さんの静かな姿勢は好きだ。
私も「みる」人だから。


*******

いろんな試みが図書館でなされていいと思う。

でも、私が「今居るこの図書館」において、
「何か」がなされるとしたら、それは私たち司書が仕掛けてなすものではなく、彼らが彼女らが(生徒、教職員含む)、ここでこういうことをしたい、と、持ち込んでくるのを待てばいい。

だってね、忙しい。子どもたちもおとなも。
次から次へと目まぐるしくあれやこれやが行われている。
そういう目に見えるものの目まぐるしさと同時に、
頭の中が、心の中が、忙しいんだ。

立ち止まって、ぼんやりと、追われず、追わずに、居られる時間と場所を、
できることならここで用意しておきたいと思うんだ。

社会は忙し過ぎる。
世界は忙し過ぎる。

彼らの頭はフル回転していて、彼らの心ははげしく揺れ動いていて。

そっと休める場所を、息をつける場所を、残しておかないと、疲れきってしまうのではないか、と、心配になる。

空気が滞ってしまわないように、新鮮な風を常に入れながら、
でも、そっと静かに休める場所としてあることが、必要なんじゃないかな、というのが私の見立て。

怠けてると思われてもいいや。


読み続ける彼も、ぼんやりし続ける彼も、眠り続ける彼も、どうぞそっとしておいて。
そう願いながら、気配をけして、ここに居る。
それが、私のこの学校図書館でのあり方で、この学校図書館のあり様を形作っている。

この本を読んで、はっきりわかった。



そして、他の学校司書さんが見立てたならば、今とは異なる場をきっと作るに違いない。
私には作れない場を。

それは、恐らく今よりずっと学校図書館らしい。
だってここは、学びの足腰が強い学校であるから。

それも、見てみたい。
率直に思う。


by shiho_kato | 2017-07-04 17:16 | 読書ノート | Comments(0)

「障害者のリアルに迫る」東大ゼミ『東大生のリアル✖障害者のリアル』

いい本です。
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良かったのは、「受けとめる側の視点」が貫かれていたところ。

毎回のゼミに、障害者の方々が来て、そのお話を聞く。
このたぐいの本は大概、そのお話された内容をポンポンと置いて、そこに感想めいたことを添える。

でも、この本は違った。
ゼミの担当教員である野澤さんが聞いた内容に自身の感想を添えてちょろりと書き、
メインはそのお話を聞いた学生の感想。

どうしてこのゼミを受講しようと思ったのか、障害をどう捉えていて、いざその人を目の前にして話を聞くに連れて何が揺さぶられたのかを、ひとりひとり丁寧に言語化していく。

障害を持たれた方をあちら側とし、それを受けとめる側をこちら側とするならば、徹底してこちら側視点から書かれているところに、ウソの無さがある。


偏見もあり、頭でっかちな理解もあり、敬遠もあり。
そこから始まる。

共通していたのは、ワードでしかなかった「障害者」が、「顔を持つ」ようになったこと。
顔を持つようになったとたん、あちら側とこちら側ではなく、地続きの私たちになっていくこと。

「福祉社会の実現を」みたいなキレイごととして終わらせない、ただただ出会いのためのゼミであったからこそ、ウソくささが限りなく小さくすることができたのだろう。

この本における「東大生」としての価値は、言語化できる能力がおそらくは他よりもほんのちょっぴり高いかもしれない、という程度だ。
むしろ、隠したいコンプレックスと、そこに留まり続けるための必死さと、高みに身を置かなくてはならない追い詰められ感との闘いが率直に語られていて、それもとても良かった。
それこそ、「東大生」が「顔を持つ」ようになった。


本筋とは関係ないのですが、私がハッとしたのは、
障害者福祉サービスの利用計画で最も用いられるキーワードは「安定」と「継続」だそうだ。

たしかに、精神保健福祉士の勉強をしたときにも暮らしの安定の持続や、実習に行った時も安定して過ごせることを第一にっていう空気が蔓延していたように覚えている。(そしてそれは妙に息苦しかった)

野澤さんは言う。
「若いころは「挑戦」や「冒険」「飛躍」をもっと求めてもいいのではないか。(略)冒険や逸脱を家族や支援者が敬遠するのは自分たちにのしかかる負担の重さからである」(p111)


「冒険し逸脱する生身の人間として」障害のある人たちをしっかと捉えたことが、私にあっただろうか。
ガツンとやられた。


あぁ、これだ。
私が、実習に行っている間、息苦しかったのは、息を殺してそろりそろりと一日を過ごすことに細心の注意を払っていたからだ。その一日が、何年も何年も続くようにと、場を作っていたからだ。



世界を広げてくれてありがとうの一冊。

by shiho_kato | 2017-06-17 20:06 | 読書ノート | Comments(0)

伊藤史織『異才、発見!-枠を飛び出す子どもたち』

異才発掘プロジェクトROCKETは、東京大学先端科学技術研究センターと日本財団が組んで取り組む、学校に不適応の「天才」を見つけ育てるプロジェクトだ。

団体の紹介によると下記のように記されている。
「新しい学びへの挑戦
“ROCKET”は、“Room Of Children with Kokorozashi and Extra-ordinary Talents”の頭文字をとったものです。そこにあるように学校を目指すものではありません。志ある特異な(ユニークな)才能を有する子ども達が集まる部屋(空間)です。
ここで選抜された子ども達が異才であると我々が評価しているわけでもありませんし、彼らを万能な天才に育てるプロジェクトでもありません。 また、いまの学校教育を否定し対抗するプロジェクトでもありません。
残念ながら、ユニークさ故にそこに馴染めない子ども達が学校にいなければならない事で不適応を起こす現状に疑問を感じています。彼らには彼らの新しい学びの場所と自由な学びのスタイルが必要です。それは決していまの学校教育システムと矛盾するものではありません。むしろ両輪であるべきだと考えています。
ユニークな子ども達が彼ららしさを発揮できるROCKETという空間を彼らとともに創造することによって、結果としてユニークな人材が育つ社会的素地が生まれるであろうと考えています。 学びの多様性を切り拓く挑戦です。」

『異才、発見!』はその取り組みの様子を描いた本。

教科書無し、時間割無し、何を学ぶかは自分で決める。
好きなことをとことんやり続けることを助ける場として「ROCKET」はある。

このROCKETの代表を務める中邑教授の話に、ガンガン今までの価値観をぶち壊されて気持ちがいい。

「(前略)本当にレゴが好きでものづくりに熱中しているのであれば、放っておけばいいんです。頑張っているところを親に見せ、ほめられたいだけの子どもは、親が寝てしまったら、十分も経たないうちに寝ます。本当にレゴに興味があり、ものづくりが好きならば、たとえほめられなくてもずっとやり続けます。なぜ、やり続けられるのか。それはほんとうに好きだから」

とか、

「計画の中でものごとを進めていくと子どもたちは好きなことをとことんやるということがない。それは時間の制限があり、ゴールが決められているからです。すごい力で集中できるのは、頑張っているのではなく好きだからやっているのです。努力していると感じることなく真剣に取り組むことができるのです」

とか、
友だちが居なくても案ずるな、と、
「好きなことをやり続けていれば、今は友達がいなくても大丈夫。大人になって、世界が広がると同じ興味を持つ人たちが仲間になる。いま、同じことに興味を持てる子どもが周りにいなくても日本中、世界中には自分だけだと思っていた興味にも関心を持ち、情熱を注ぎ続ける人たちがたくさんいるから安心しろ」
とか。

こういった信念を貫く姿勢で、大人が子どもたちと向き合える「学校」が、「学校」と名のつく場の1割程度を占めるようになれば、子どもたちは生きやすくなるだろうなー。

みなと一緒におんなじことをすることが安心だったり、モチベーションになる子どもは少なくなくって、それはそれでいいとも思う。今の形が合っている子はそれはそれでいい。

でも現状はそればっかりで、あんまりに揃い過ぎて(画一的に過ぎて)苦しいんだよなー。

ちょっとしたはみ出しも、ちょっとしたつまづきも、ちょっとしたへそ曲がりも、人生のごくわずかな時間だけなのにやたらと目立ってしまい、ぼんやりと社会の中に没入できないから、闘うしかなくなって磨り減っちゃうんだよね。


あっちとこっちとぜんっぜん違うじゃん!
って思えるような、あり方がいろいろの学校文化が育てばいいのにな。

受けている教育環境がバラバラだから、全国一斉の試験など無意味になって、測れる学力などなくなって、ただただ自分に合いそうな自分の学びたいことを学びたい方法で学べそうな高校だったり大学だったりを選んで行くような、そんな多様な教育のあり方ってムリなのかな。

「自由の相互承認」ベースなら、ちっとも不可能じゃないんだけどな。



もし、教育ってものに夢を見るのであれば、そんな夢だ。

by shiho_kato | 2017-06-16 20:20 | 読書ノート | Comments(0)

柚木麻子『BUTTER』

小説に仕立ててあるから読めるお話がある。

木嶋佳苗の事件には、とんと興味が無い。
おそらく、この小説を読まなかったら、記憶の隅からも零れおちてしまっていたに違いない。
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「オンナ性」の正体とはなんなのか。
ザクザクとえぐって行く。その潔さが心地よい。
木嶋佳苗を模する梶井真奈子に、読みながら一緒に絡め取られそうになっていく。

タイトルのBUTTERは、文字通りパンに塗るあの「バター」のこと。
炊きたてのご飯に、バターと醤油を落として食べたくなる。
生唾を飲み込んだら、私の負け。
五感を刺激されながら読む小説だった。

後半の玲子の暴走がなければ、ねっとりとそちら側に引き込まれていたかもしれない。
揺さぶられる小説。
やるな、柚木麻子。
読み終えた直後は、木嶋佳苗事件についてのルポも合わせて読んでみようと思ったものの、
一日二日を経て熱が冷めた。


小説だからこそ、知り得た事件。
他にも多々あるなー。
本が、私の狭い視野、狭い関心から、ぐいぐいと社会への間口を広げてくれる。
ありがたい。

by shiho_kato | 2017-06-12 20:15 | 読書ノート | Comments(0)

AIにお任せ@羽生善治『人工知能の核心』

たまたま、AIとか、プログラミングとか、DeepLearningとかいう単語を学ぶ一日に遭遇した。

すこし、知っておいた方がいいのかな。。。
苦手分野だけど。

『三月のライオン』や『聖の青春』で、急速に親しい人になったような気がしている羽生善治さん。
親しい人の書いた本なら読めるような気がして、羽生善治『人工知能の核心』
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1996年にプロ棋士にとった「コンピュータがプロ棋士を負かす日は?」というアンケートがあるそうだ。
他の棋士が否定するなか、羽生さんだけが2015年にその日が来ると回答していたそうだ。

その羽生さんが、NHKスペシャルの番組製作に協力して、AIを開発しているグーグル・ディープマインド社や、研究者、開発技術者を訪ね歩き、話を聞きながら書いた本。

すっと読むことができた。




読み終えての感想です。

もうね、政治家とかよりもずっとずっとAIの方を信じるよ、私。
客観的なデータの蓄積と、試験による経験の蓄積で、偏向無く判断してくれるAIの方を信じる。

どこからどのくらい税金を取り、どこへどのように振り分けたら、より社会の公平性が増すか。
なんてこと、きっと、ぱぱっと計算して、組み立ててくれるだろう。

政治家とか、行政マンとか、私利私欲とか名誉とか権力とかに左右される人たちに決めて欲しくない。

その法律、今このときに作る必要があるかどうか、法律の内容の有効性や妥当性も、きっとデータからモデル作成まで、AIにはかってもらった方が、納得のいく結果を示してくる気がする。


数年後に無くなる職業に、政治家が入る日がきたらいいなと思う。
人の命というのか、人の人生というのか、私たちの生きているこの土台を、好き勝手に揺るがせにする彼らに何らの職業意識があるとは思えないし、税金の中から高い給与を払うほどの仕事をしている人としては認定できない。


もちろん、AIにプログラムする「ヒト」の偏向が入る可能性があって、そこが限界なのかなとは思う。
でも、読むに連れて、入れるデータをさえ間違えなければ、そんな偏向も均してしまうほどに、彼らは勝手に(?)経験値を圧倒的な量、重ねていく。


私にはその技量がないから、誰かプログラミングに着手してくれないかな。
日本の歳出予算配分を決めるAI、日本の借金を0にしていくロードマップを描くAI、子ども(に限らず)の貧困率を下げる政策モデルを作るAI。

どんな試案を見せてくれるのか楽しみ。
ヒトが作ったそれらよりも、確かなものを見せてくれるような気がするんだ。

by shiho_kato | 2017-06-09 18:52 | 読書ノート | Comments(0)

字を書きたい@神保信長『字が汚い』

ぷうちゃんは筆圧が強い。

そのため、板書が追いつかないことがあり、漢字の宿題は時間がかかり過ぎて書きながら寝ちゃうし、作文の宿題は書きたいことに書くスピードが追いつかず「書くのタイヘンなんだよ」とシクシク泣き、挙句の果て黙って学校を休んでしまうくらいに疲弊するらしい。

鉛筆の持ち方や、濃い鉛筆で力を入れなくても書けるように工夫を重ねて、だいぶマシになってきたけれど、以前の方が字はキレイだった。

キレイきたないは置いておいて、私はペンを持って字を書くのが好きだ。
漢字の書き取りの宿題なぞ、ぜひやらせていただきたいくらい。

好きではあるけれど、機会は減った。
(今週書いたのは、ぷうちゃんとむむちゃんが学校に提出する書類にサインしたくらい)

圧倒的にキーボードを打ったり、タップしたりすることの方が多い。
PCやスマホが、手持ちのものとなって、おそらく文章を書く量は圧倒的に増えている。
このブログも、もちろん。
考えたりすることのスピードと書くスピード、手書きのときの追いつかない焦れったさは無くなった。

おそらく、私に限らず、総体的にひとりのヒトが生涯に書く文章量は、増えていると思われ、
言葉を組み立てて言葉で己を表現しようとする行為の分量が増えるのはいいことだ、と、思う。
書くというのは浅いにしろ深いにしろ、我の中にあるものを取り出す行為だから。


それとは別に、手書きで文字を書きたいと思う。

妨げているのは、時間。
時間が足りない。
書き写したい言葉、刻んでおきたい言葉などは、手でメモを取り、書き取りたいと思う。
思うだけで、実際には写真に取ったり、キーボードで打ったり。


『字が汚い』は、字が汚い筆者が、きれいな字が書けるように、あれこれ美文字本を試したり、ペン字教室に通ったりする。
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導き出した結論は、キレイな字を書くには、ゆっくり時間をかけて書くこと。
ぷうちゃんがそうだったから、うんうんうなずきながら読む。

そして、その人なりに味のある字は、キレイきたないを越えて、成功している字だということ。
まわりにいる、父の字、N本さんの字、M木先生の字を思い浮かべる。
どれも署名がされていなくても、その人の字であることがわかる字であり、時折読めなくて四苦八苦する字であり、今後もその字で書き続けて欲しい字である。


今年のお正月、筆を持って書き初めをしながら、「やっぱり字を書くのは気持ちがいいなぁ。おばあちゃんにひと月に一度くらい葉書を送る年にしよう」と、心密かに決めていた。
が、あっさり挫折。
そうだ、宛名をシールで打ち出してハガキに貼って準備しておいたらいいんじゃないかな。
字を書くために、宛名を書く時間まで惜しんでるようじゃダメだね。

おばあちゃんに、気持ちだけ届け。
おそらくこのブログを読んでいるおじさん伝手に伝わりますように。
(やっぱりこうして活字に拠ってしまう・・・人は道具に負ける生き物だと思うのです)

by shiho_kato | 2017-06-08 11:20 | 読書ノート | Comments(0)

宮武久佳『正しいコピペのすすめ』(岩波ジュニア新書)

著作権と、肖像権と、知っておきたいなーと思って。
手っ取り早く、勉強会に行こうと思ったけど、日が合わないので、本を読むことにする。
簡単に書かれていると、よりありがたいので、岩波ジュニア新書から。

以下、ひとつだけメモ

学校で教育目的で配布するプリントについて、何部までならコピーしていいのか、との疑問に「いろんな著作権の先生に「相場」を訊ねてみると、小中高のひとクラスの数ではないか、つまり、30ー40人ぐらいじゃないか、という答えが多いです」(P87)とのことだけれど。
 たとえば40人学級4クラスで授業を行うときには、等しく同じ授業をしようとすれば最低でも160部が必要になる。私の通っていた高校は44人10学級だったので、最低440。数の問題ではないのではないのかな・・・。

条文
第三十五条  学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。」



ジュニア新書でやさしくしてくれているので、解説はわかりやすかった。
でも、十分に消化できない部分も残ったので、
福井健策『18歳からの著作権』プリマー新書、『著作権とは何か』集英社新書も再読しよう。
以前読んだのに、内容を覚えていられなかった・・・。
興味が強くないものは、どんどん忘れちゃうから、その都度都度読んでいくしかないよね。




本筋とは関係ないのですが、
部活について「必ずしも全員が参加することが義務づけられていないクラブ活動(部活)は、趣味や親睦の課外活動であって、教育目的とみなされません」(P89)とのこと。ゆえに、部活で用いられる「著作権対象の資料」はコピーして配ったりしちゃいけないそうです。
(PTAの会議や、職員会議や、保護者会も、ダメなんですって。知らなかった)


部活って、教育活動ではないんだ・・・。
文科省の現行の「学習指導要領」では、
生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵かん養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。
教育活動の一環と明記されているけれど、違うのかな。

著作権の条文では、「教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合」とあるので、授業じゃないからダメなのかな、と受け取ることはできるのですが、部活動は教育活動ではない、という書き方はしない方がいいんじゃないかなーと思った。


そこのところが気になって調べてみたら、今言われている「ブラック部活」(*)とか、部活に休日必置とかも、この「学校教育の一環ではあるが、教育課程外」の解釈の揺れ、振り幅に起因しているみたい。

そうか、部活が教育活動であるなら顧問は部活に携わる時間は、正規の勤務時間として給与が保証されるべきだけど、そう位置づいてないから「部活動手当」みたいなので、4時間で日当1200円とか、休日日当3600円とか、よくわからない数字(だって4時間1200円って、時給300円だよー)で働くことになるんだ。


個人的には、教員は勤務時間にして、生徒はいつでも休める活動にするのがいいよね。って思う。
だって、生徒の「自主的、自発的な参加」って謳っているし、「学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう」って指導ということだから教員として勤務してる時間にしか課されないことだもの。




*ブラック部活:生徒たちが激しくしごかれ、健康を害するほどの練習を強いられたり、人格を否定するような暴言を投げかけられたりする部活動の実態を表す言葉。生徒の中には不登校になったり、自殺に追い込まれたりするケースも見られるなど問題が深刻化している。また近年では、生徒たちだけでなく、土日も出勤して部活動の指導や引率に当たるなど、教員の過酷な勤務状況を指してブラック部活と呼ぶようになっている。2015年12月には、公立中学校に勤務する教員6人が「部活問題対策プロジェクト」を結成。オンライン署名サービス「Change.org」で、部活の顧問をするかしないかの選択権を求める署名集めを始めたところ、わずか2カ月で署名が2万2000人を超え、16年8月には2万8222人分の署名を文部科学省に提出した。同省とスポーツ庁は、16年6月、部活動に休養日を設けることなどを盛り込んだ報告書をまとめた。17年度に部活動の実態調査を行い、同年度内に具体的な休養日数を盛り込んだ指針を定めるとしている。(イミダス2017)

by shiho_kato | 2017-06-06 12:03 | 読書ノート | Comments(0)

椰月美智子『明日の食卓』、池井戸潤『あきらとアキラ』

現実を映し取りながら、その出来事に「著者」なりの解を与えるから
小説は小説として成り立つのだと思う。

高村薫や山崎豊子(や三浦しをんや原田マハ)の小説は、取材して取材して取材して積み上げて組み立て直して行く。
宮部みゆきや池井戸潤の小説は逆に、作って作って作って現実に寄せて行く。
どちらも、現実では触れられない埋められない空白を想像で塗りつぶしていく、その想像の部分が小説として面白味を作り出している。


現実をペラリと写し取るだけの小説は、小説ではない。似ているようで違うんだ。

そのさじ加減が難しいか難しくないかは、私は読み手であり創り手ではないのでわからないのだけれど、
ときどき、間違って、ペラリと写し取ったものをいくつか並べて串で刺して出来上がりにしてしまう小説がある。

今回読んだ『明日の食卓』はそれ。
椰月美智子の小説は、他のものもその傾向がある。
三人の「いしばし ゆう」くんを育てる母の三つの物語、という設定は面白かったのにな。

池井戸潤が同じ名前の少年たちを描いた『あきらとアキラ』は
設定はベタ(零細企業の息子山崎瑛と、御曹司階堂彬のそれぞれの人生と、その重なりで生まれる物語)で、いつもの銀行物語ではあるけれど、十分に面白くって一気に読んだ。
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こんな現実もあるよと、示すための手法として小説を用いることは、手段としてはありだと思うのです。
が、そこに思い切った強い「私」の解釈が入ってこないと、面白くない。

それならば、ルポで十分と思う。


物語としての面白さを感じることができず、子どもを育てながら感じる生々しい苦しさやしんどさばかりをポンと見せられて終わってしまった。

このところ、批判相次ぐ「ムーニー」のCMみたいな、見終わったあとの封印していた不快感だけが解き放たれて終わる感じ。

伝えたいメッセージの強さが、物語に乗ってきていないんだな。

ため息をついてページを閉じる。ちょっと残念。


by shiho_kato | 2017-06-05 11:20 | 読書ノート | Comments(0)

畑野智美『家と庭』『タイムマシンで行けない明日』

畑野智美を二作。

下北沢を舞台にした『家と庭』。

母と、姉二人妹一人に囲まれた「ぼく」の情けない感じがいい。
ゆらりゆらりガツガツせずに「そこに居ていい」「場のゆりかご感」が、
下北沢の印象と合っている。
(下北沢のことをたいして知るわけではありませんが)


『タイムマシンで行けない明日』は、畑野智美の作品の中では、群を抜いていい。
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取り返しのつかない出来事に遭遇し、取り返すために戻った時間から、
戻ってくることができなくなる。

取り返しのつかない「彼女の死」よりも、
戻ることのできないまま「僕の死」後の世界の方で生き続ける僕。

自らの意思で選んだのではなく、ただ流されてしまうだけの男の子ばかり描くなぁ。
とは思うものの、畑野は女の子よりも、男の子の方が、幾分よく書ける気がする。


そして、地に足の着いた現実を描こうとするよりも、『タイムマシン・・・』の浮遊する感じの設定にのっかって書く方がいい。(現実描写の力が弱くて、つくりものの上で演技してる感が出てしまうから)

その路線で進めばいいのだ。

by shiho_kato | 2017-06-01 18:08 | 読書ノート | Comments(0)