むむちゃんの散歩道

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カテゴリ:読書ノート( 621 )

ゴッホ展 巡りゆく日本の夢@東京都美術館

年末に北斎展を観に行き、年明けにゴッホ展へ。

原田マハの『たゆたえども沈まず』は、ゴッホと浮世絵の出会いを描いた小説なので、こちらが本道。

小説をなぞるように、登場人物たちを思い起こしながら観ていく。
耳を澄ませると、「出てきたあの人って、この人かな」「この人、あぁなっちゃったのって本当かな」
おそらく同じく原田マハの小説に誘われてしまった人たちが少なからず居る模様。

先に北斎展で、浮世絵が西洋美術に及ぼしたチカラをしっかり学習していたから、
ゴッホや、その周辺の人たちにどう影響を及ぼしたかの背景がすんなり入る。

そのうえで、画面を分断する構図や、強弱の強い遠近法や、、、そういった画風そのものの解析についても、ふむふむと理解することができた。


何かの折にテレビで、ゴッホのデッサンに色を付けて「ゴッホの作品」として復元(創造)する試みを日本の女性画家古賀陽子さんが挑戦するというドキュメンタリーを観た。
その時に復元した作品も展示されていて、目にすることができた。
(この展覧会のために行われた復元プロジェクトだったことを後で知る)

素人目には、もうちょっとくすんだ明るさが欲しいような気もしたけれど、面白い試みだと思う。



ゴッホ展の帰り道、北斎展の前を通り、日本は良いなぁ。
私は和ものが好きだなぁと、あらためて思う。

なんだかうかつにそう思ってしまうと、悪いナショナリズムというのか国粋主義というのか、「美しい国」めいたものに、一片の加担をしてしまいそうで、沈黙に封じ込める。窮屈で息苦しい。
この国はステキだとやすやすと誇るわけにはいかないトラップを国を牽引するはずの政治家たちが作り出しているなんて、まったくおかしな国だ。




お正月休み。
たまには、映画を観に行こうかな(「否定と肯定」か「ギフテッド」)、、、、と迷ったけれど、時間にふりまわされずに訪れることができる美術館歩きはなかなかに良かったでした。


ひと月に一度とは言わないまでも、今年はもちょっと回数多くふらっと立ち寄りたい。

美術館は中学生までは観覧無料。
むむちゃんはかるた三昧だし、ぷうちゃんが付き合ってくれるかどうか誘うのが難しいけれど、本物を近くに感じる機会を今年はもちょっと持てたらいいなぁとも、思う。
by shiho_kato | 2018-01-02 23:05 | 読書ノート | Comments(1)

北斎とジャポニズム展@国立西洋美術館

国立西洋美術館で開催中の北斎とジャポニズム展へ。

原田マハの『たゆたえども沈まず』に感化されて。

モネやマネやドガやセザンヌや、私でも知っているような画家の作品と
北斎の浮世絵が並ぶ。

油絵と、平面で細い線の描画と。

展示にはもっぱら『北斎漫画』という、北斎のスケッチ集が用いられていた。
スケッチであるので、筆の線画で、色もないわけだ。
なのにどういうわけか、北斎の作品のほうが肉厚に立体感があって見えてくる。
不思議だ。

骨接ぎの専門医に身体の構造・筋肉や骨のつくりを学んだそうだ。
それが厚みをつくっているのかな。

『北斎漫画』のスケッチ集からとられた作品は、ニヤリ、クスリと笑いたくなる絵が連ねられていた。
展覧会の画集ではなく、この『北斎漫画』そのものを読みたい(観たい)!!


ぐりとぐらの原画かと思うようなスケッチや、靴職人の小人たちのスケッチのようなものまである。「葛飾北斎」がそういうような絵を描くなんて、ここに足を運ばなかったら、一生知ることは無かったなぁ。
そういう発見があるから、なんでも観てみるものだ。
自分の関心直行ストレートだけで物を見聞きし、知ろうとすると、世界が狭まってしまっていることに気づけない。



迷って手ぬぐいを買わずに帰って来たのだけれど、やっぱり買えばよかった!
まだ会期は1月28日まで続くので、それまでに寄ることができたら。
by shiho_kato | 2017-12-24 12:04 | 読書ノート | Comments(0)

鈴木るりか『さよなら、田中さん』

とても、良かった。
とても、とても、良かった。

14歳の小説家デビュー、斜めに見ていたのです。

でも『さよなら、田中さん』、文句なく良かった。とても良かった。
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作風が西加奈子に似ている。
途中で、西加奈子の『漁港の肉子ちゃん』と重ねた。
西加奈子のようなクセがないところが、また良い。

よくよく人を見ているなぁ。
見たものを、思い浮かべたものを、まんま文字に落としていける自然な呼吸が身についているんだなぁ。

誰が書いたかをのぞいても、この作風は好き。
同じような作品を、読みたい。って、思う。

・・・・

この小説には、彼女が小学校4年生時に書いたもの、6年生時に書いたものも、おさめられている。

そうなんだ。
子どもたちの頭の中で心の中には、いろんなストーリーがおとずれる。

自分は捨て子物語だ、とか、実は異国のお姫様物語、とか、天涯孤独の物語、とか、
いじめられっ子物語、とか、友だちとけんかする物語、とか、ヒーローになる物語、とか。

空想の中の、妄想の中の、描かれるそれらの物語の数が多ければ多いほど、生きる耐性になる。

どんな現実も、それらのストーリーのバリエーションの中に取り込むことができさえすれば、生き延びることができる。
物語には展開があり、次の展開を待てる力があれば、今をやり過ごすことができる。
現実と空想のあわい(間)に身を置き、行ったり来たりできる力があれば、何があっても生きていくことができる。

だから、物語を読むことが、物語をたくわえることが、子どもたちには大事なんだ。

なぜ、子どもたちに、かと言うと、大きくなるにつれて知る現実を構成する多くの要素は、
空想や妄想の自由なストーリー作りを邪魔するからだ。

たとえば貧困の構造、経済や政治の構造、教育システム、国の成り立ち、etc.
知識としてのそれを、知れば知るほど、自由なストーリー展開には「待った」がかかる。

ほんとうは、教育も、政治も経済も、貧困も、一断面にしか過ぎず、
まるっと一人の「生活」とか「人生」とかが、何よりも真実で大事なものなのだけれど。
生活や、人生の、部分部分を微分積分すると、教育とか政治とか社会とかの影響をちょいちょいと受けていることに気づくというだけのことなのだけれど。それらの部分は私をまるごと支配し得ない。

貫くべきは、わたしは「どう生きるか」であり(わたしの人生)、わたしは「今日をどう生きるか」である(わたしの生活)。

・・・・

鈴木るりかさん、14歳は、まだ社会の構造を学んでいないだろうし、貧困の諸相も、貧困のからくりも、それが人をどのように損ねたり損ねなかったりするかも、知識としては学んでいない。

それでも、描けるのは、生きているヒトをよくよく見ているからだ。
逆を言えば、生きているヒトをよくよく見ていれば、社会の構造や貧困の諸相やからくりの端緒をつかまえることができる。

ほぼ同時に、井手英策他共著の『大人のための社会科』を読んでいた。
流されないために、ピン押ししておくべき知識はあるなと思いながら読んだ。

もっぱら小説読みのわたしが、読む小説・読む小説を目の前の社会を読み解くチカラに変えることができるのは、
大学生になったいっときバカみたいに1,000冊あまりの新書を一気に読み通した底力みたいなものがあるからだ。

私に限って言えば、順序を違えなくて良かったと思っている。

小学生までの物語読みがあり、中・高生になってそこに随筆・詩・短歌読みが加わり、大学生・社会人初期の新書読みがあり。

ストーリーの蓄えがあったからこそ、人の心に迫る言葉の力への蓄えがあったからこそ、
現実のさまざまな諸相の「知識」を注入しても、人を見る目が「型どおり」にならなかった。

知識を先に蓄えていたならば、細分化したパーツに目が行き、
まるっとそのヒトを見る目を持ち難かったことだろう。



鈴木るりかさんの『さよなら、田中さん』は、そんなことを考えさせてくれる小説だった。

物語を浮かべることのできる彼女のチカラは、子どもたちの誰もが持つチカラだ。
でも、彼女は優れた書き手だ。
浮かべることと、書く事には、大きな大きなハードルがあるから。

だから、書いて欲しい。
どんどんどんどん、書いて欲しい。

子どもたちがその年齢で心に浮かべるものたちを知りたいから。
かつて多数の物語を浮かべて過ごしたあの時代を忘れずにいたいから。

by shiho_kato | 2017-12-08 17:21 | 読書ノート | Comments(0)

高森美由紀『みさと町立図書館分館』

タイトルに惹かれて読んだ一冊。
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読み始めたら、会話文に現れる表現が懐かしい。
そのはずだ。青森の言葉だった。

図書館分館はいなかの小さな図書室の体。
職員三人、司書の私(遥)と香山に、役場職員の図書館長岡部。
さらりと乾いてて、言いたいことを言ってしまえる関係がいい。

毎日の規則正しい基本的な図書館業務が淡々と描かれて、
中途半端に本にひきつけてあれこれしないのがいい。

でも、こんなに淡々としたお仕事・・・と思われたら、
退屈な仕事に映るし、楽しすぎな仕事に映るだろうな。

ちょっとホッとしつつ、枯れてゆくしなびてゆく空気の抜けた風船になっていく未来を押しとどめてほしいなー、と願ったり。

遥とお父さんの関係もいい。
お父さんのキャラの置き方がいいんだろう。


母を亡くした喪失感を、受け入れていくプロセスの揺れや、それぞれの受け入れるための時間や、
そこに祖母を亡くした香山の今を、するりと重ねて私を知る描き方、キライじゃない。


どういう作家さんかわからないけれど、青森出身の児童文学作家(3年目)のよう。
じわりじわり、ポツポツとあたたかいお話を、これからも書いて欲しい。




by shiho_kato | 2017-11-18 21:42 | 読書ノート | Comments(0)

村山早紀『百貨の魔法』

本屋大賞の候補作になった『桜風堂ものがたり』の姉妹作。
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月原一整が勤めていた書店が入っていた百貨店を舞台にした物語。
デパートではなく、百貨店。

百貨店の中に入るお店それぞれに、それぞれの物語を有していることを教えてくれる。


こころみに、白猫を用いないでこの物語をトレースして書き直してみたら、きっとすごうくいい小説になるような気がした。

村山早紀の小説はほわんとあたたかい。
木枯らしの吹く、染み入る寒さに負けそうになるこの季節に読むのに、ぴったりだ。



by shiho_kato | 2017-11-15 13:01 | 読書ノート | Comments(0)

唯川恵『淳子のてっぺん』

田名部淳子さんに、生前いちどお会いしたことがある。

すごい偉業を成し遂げた方なのに、静かにそっと立っていた。

人を圧することの無いように、最高峰の山を登る圧倒的なオーラもエネルギーも、
そっと仕舞いこまれていた。

最近、年に何度か登山をする。
無言で、ほんとうにこの先頂上に行き着けるのだろうか、という不安を押しやりながら登った山は750m程度の山だったりする。

山に登るって、大変なことなんだな。
2,000m、3,000mの山に、泊りがけで登るってどんなだろう。
恐ろしさと、不安と、退屈と、身を助けるのはこの身しかない心細さと。

登るまでは、42km走るほうが大変だと思っていた。
比じゃなかった。
走るのは右足と左足を交互に出せばいいだけだ。
給水や給食は出してもらえるし、仮に自分で背負っても大した量ではない。
足を痛めて走れなくなったとしても、ちょっとなんとかすればすぐに助けに来てもらえる。

山で、助けを得ることは、ほんとうに大変だ。
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『淳子のてっぺん』を、
ぞくぞくしながら読んだ。

どんな環境の中でも安定して健康な心と健康な体を保ち続けることができること。
どんな場面でも次の一歩次の一歩を諦めずに踏み出すことができること。

静かな強さ。
それが山人だ。


唯川恵がこんなふうな小説を書くと思わなかった。
とても良かった。
もっと、こうやって静かに生き抜いた女性たちを取材した小説を書けばいいのに。
架空のありそうな恋愛小説よりも、強く惹きつける力があるのだから。


by shiho_kato | 2017-11-13 16:41 | 読書ノート | Comments(0)

伊吹有喜『なでしこ物語』『地の星 なでしこ物語』

遠州(いまの静岡県)の過疎の進む山里にある名家遠藤家のお屋敷「常夏荘」に住まう、子どもたちのお話。
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語り手は常夏荘の主で未亡人の「照子」なのだけれど、
体が弱く静養のために常夏荘に訪れている遠藤家の御曹司「立海」と、
身寄りを失い遠藤家の山を管理する祖父に引き取られた「耀子」の、
ふたりの子どもたちを丁寧に丁寧に描いている。

不遇な環境で育ってきた耀子が、常夏荘の大人たちに見守られて、ゆっくりゆっくりと自らの持っている力を取り戻していくお話。

常夏荘に住まい、常夏荘に働く大人たちが、手を出しすぎずに、安全で安心な場所をそっと作りながら、耀子がみずから獲得していくのを待てる。

おとなと、子どもの距離感が良い。
燿子の、急がず、ゆっくりじっくりと見つけていくところが良い。
ゆっくりじっくりの耀子の変化に、おとなたちも少しずつ少しずつ変わっていくのが良い。

口数の少ない祖父は、「赤毛のアン」のマシュウへと変化していく。
使用人との間に線を引いていた照子が、共に耀子の誕生会を祝おうとする。

『なでしこ物語』は静かで、悲しさと寂しさも苦しさもあるけれど、あたたかで、救いのある子どもたちの物語だった。


2012年に書かれた『なでしこ物語』から、5年を経て、先月発刊された『地の星』は、
大人になり、常夏荘の主になった耀子の物語。

過疎の山里で、女性たちが働くこと、その地を大切にする思いと、思うだけにとどまらず形にしていく。じれったいほど控えめに慎重に、でも着実に実現していく。

物語の進むテンポは、『なでしこ物語』から少しも変わらない。5年間は空白だったのではなくて、あたためてきた時間だったのだなー。と、思って調べたら、2013年から雑誌で細々と連載を続けてきて、このたび

衰退するふるさとを、なんとかできないだろうか。
その地で採れるもの、育ててきたもの、それに手を加える技術、死蔵になりがちな個々の人たちの力を、集めてつないで、生き生きとしたものへと転換させ、その土地で必要とされる支えやニーズに流し込んでいく。

いま、日本のどこかしこでも、自らの地域を自らの手で活かす試みがなされている。

地産地消とか、女たちの手とか、地域の物産品とか、それらは、こうした物語を背景にしているんだな。

稲穂は美しく、どこか立ち枯れた空気を漂わせる実家の町にも、こんな物語があるのかな。
これからの物語が、既にはじまっているのならいいな。



『なでしこ物語』の耀子から、『地の星』の耀子へは14年の歳月が流れている。
来年2018年に、その14年を埋める『天の花』も発刊されるそうだ。





by shiho_kato | 2017-10-23 11:54 | 読書ノート | Comments(0)

綿矢りさ『手のひらの京』

京都の姉妹と言えば『細雪』

こちらは京都の三姉妹のお話。

ゆっくり進む、静かな小説。
京都という地の特性なのか。

綿矢りさの小説にある「ひとひねり」は、不自然であまり好みではない。
この小説では、不自然なひねりがなくて、静かに読むことができた。
この路線が、いいんじゃないのかな。

京都の小説は、京都に住まった経験を持つ人にしか書けないような気がする。
もちろん北海道だって、青森だって、長野だって、福岡だって、そうなんだろうけれど、京都は特に。

京都出身の綿矢りさだからこそ、気負いなく描くことができた京都の小説。
出かけたくなるなー。

by shiho_kato | 2017-10-19 14:11 | 読書ノート | Comments(0)

柚木麻子『さらさら流る』

柚木麻子の新作。
リベンジポルノを主題にする。

導入がだらだらしていたので、読みかけて放置していた。
あらためて手に取って読み進めたら、最後まで読まずには恐ろしくて居られなくなり、一気に読んだ。

いたずらに過剰におびやかさぬように、あえて、あたたかさとゆるやかさをしっかり盛り込んだ上で、本題に切り込んだのだろうな。

機微を丁寧に、しつこくひらいてひらいてひらいて、描くのが上手い。
小さな、わずかな揺らぎが、悲しく残念な出来事を引き起こす。
生きている上で、誰にでも起こりうると思わせてくれる。

気を抜けないなー、と思う。
気を抜ける場や相手をしっかりと確保していないとなー、と思う。

女の子も、男の子も、「ついうっかり」の、「つい」とか「うっかり」の歯止めに、この小説は読んでおいたほうがいい。


by shiho_kato | 2017-10-14 20:15 | 読書ノート | Comments(0)

お仕事小説 三浦しをん『ふむふむお仕事』『エール』1~3

お仕事小説をせっせと読む。

三浦しをんの『ふむふむお仕事』と、『エール』1~3。

三浦しをんのインタビューは面白い。
インタビュー先の選び方がユニークで、どの人もどの人も、生きる力が強い。
そして、気の合う人の話しか聞きに行っていないんじゃないか?というくらい、率直な話を引き出す。

職業がユニークすぎて、尖っている人たちばかりなので、同じ地平で「働く」を捉えられないのが残念。
平たく働く「会社員」「OL」「公務員」「教員」等々の、フツーの人に、三浦しをんが話を聞いたときにどんなインタビューがなされるのか、読んでみたいなぁ。


『エール』はアンソロジー。
この小説のための書き下ろしのアンソロジーで、あちこちからの寄せ集めではない。
そのためなのか、作家の個性が7割くらいに抑えられているような気がする。

20代の、大卒で就職して、仕事に慣れて、この仕事で今後ずっとやっていくのかどうか、岐路に迷う年代のお話というのは統一されている。

作家が、登場人物にいろんな職業をあてるときのリアリティは、取材によって担保されるのかな、と思うのだけれど、事前の調査や取材が上手い人と、そうでな人がいることが、アンソロジーであることでハッキリ現れた。

人物をつくるのって、丁寧な緻密な作業が必要なんだなー。
お仕事そのもの中身や面白さよりも、描かれ方に目が行ってしまったのが残念。
やっぱり、一冊ガッツリ、その職業を、その人を読むのが、面白い。

by shiho_kato | 2017-10-12 15:53 | 読書ノート | Comments(0)