むむちゃんの散歩道

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12/30 お餅つきで、年の暮れ。

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今日は朝からお餅つき。
毎年恒例になってもう25年くらいになるだろうか。

朝食もそこそこに、薪をくべて焚き火をはじめる。
焚き火の火で炊きあげたもち米をつくのです。

子どもたちが火遊びに興じるうちに、
雲が切れ、日がさすと一気に温かさが増す。

杵と臼でつきあげるお餅つき、
弟が負傷し、エース不在のお餅つき。

ちびっこたちと、非力な30女子のMちゃんと私。
結局いつまでも現役でがんばる父と母を頼りに。

炊き上げたもち米を待ちきれない子どもたちがつまむ。
アツアツで甘みがあって美味しい。
そして、みなでペッタンペッタン。

つきあがったお餅をうすから直接つまんで食べる。
これが、また、美味しくて美味しくて。

ひと臼目はのし餅に。
ふた臼目は丸めて鏡餅や、まる餅、あんこを入れてあん餅に。
粉で真っ白になりながら、つまみ食いをしながら子どもたちも夢中で参戦。

お昼は
つきたてのお餅と、毎年年末に伯父から送られてくる
牛肉や魚介を炭火で焼いて。

ホクホクとしたお腹を抱えて、
午後は海を見下ろすことのできる温泉へ。
内風呂からも、露天風呂からも海が見える。
ぬるめのお湯に子どもたちもたっぷりつかって、
体の中はさらにホクホク。

毎年恒例のホクホクの12月30日を無事に終える。
毎年、同じように過ごせてきたこと、今年もそうして過ごし終えられたことに、
心から感謝して、心あたたまる一日。
あと今年も、もう一日。
by shiho_kato | 2011-12-31 20:38 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

読書日記 12/30-31 角田光代『くまちゃん』、中島たい子『ぐるぐる七福神』

中島たい子の『ぐるぐる七福神』は、時宜にかなう、と
思って読みはじめた。
都内の、七福神めぐりに物語を添えて紹介している。
いや、七福神めぐりにかこつけて
物語を描いている、というのか。

最近、朱印帳にご朱印をもらう楽しみを知った。
人は、なぜ、朱印をもらうのだろう。
祈りをかなえるため、願いをかなえるため、
なのだろうか。

成就はもしかして二の次ではないか、
祈ることそのもの、願うことそのもの、その行為そのものに
心を傾ける時間を得ることが、朱印をもらう目的の根本にあるのではないか。

そう思っていたら、そういう小説だった。
安心して読めるとともに、
数日前に読んだ、辻村深月のエッセイの中にあった、
「朱印帳を持たない」ように気をつけている、
持ってしまうと、集めることに執着してしまうから、
と書かれていたことを思い出す。


あぁ、まわりたい。谷中七福神、日本橋七福神、港七福神、亀戸七福神、浅草名所七
福神、武蔵野七福神…。
あぁ、いけない、メモをとってはいけない。

そして、もう一冊、角田光代の『くまちゃん』を読む。
失恋短編連作集。
角田光代の得意な連作オムニバス。
しかも、失恋集で、かつ憧れとほんまものの恋とは何か。
あとがきを読むと、そこにプラス仕事と恋とは何か、
を、加えてあるという。

なんだか、中島たい子の小説がまざってしまったり、
ちょっと前に読んだ様々な恋愛小説たちの登場人物の、
異なる側面を照らしだしているようで、
読みながらごちゃごちゃになる。
ごちゃごちゃになりながら、ごちゃごちゃも、ま、いいか、
と思いながら、読み続ける。

読み終えて、ため息をつく。
恋は一途にはしてはいけない。
恋は多くは思いこみだったりして、
多くは意思の力だったりして、
自らを自ら方向付けしてコントロールしながら、する行為なのではないか。
ナチュラルな行為ではないのではないか、きっとそうだ!
と、思う。

恋に身を投じよう、という私と、
そこに冷めておこう、という私と、
両者をひとりのうちに住まわせておくことで、バランスがとれるようになる。
ということを、教えてくれる。
いや、角田光代、おとなになったなぁ、と、
年上の角田光代さんに対して感心する。

たぶん、今年読み納めの一冊。

必ず、ひとはおとなになっていく。
おとなになるとは、気づけること、気づいていることを認められること、
さらに欲を言えば、気づいていることを認め
それ相応の行動に抑制しながら結び付けていけること。

さ、来年はもう間もなく。
そんなおとなになれるか、来年は?
by shiho_kato | 2011-12-31 20:23 | 読書ノート | Comments(0)

読書日記12/29 小林和彦『ボクには世界がこう見えていた〜統合失調症闘病記』、木村俊介『物語論』

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東日本大震災の復興に関して述べる熱い多弁な書が
今年はたくさん出版された。

この本は、ともすればその種の一冊と読んでも違和感がない。

この社会の仕組みを良いものにするには。
あるとき、そこに天啓のような思いつきを得て、
構想へのイマジネーションがたくましくなり、
こうすればこの社会は完璧に良くなる!
自分はそのためにこうたち働こう!
その着想の高揚感は、ちまたで声高に復興を論ずる人たちのそれと似ています。
構想からの連想が溢れ出し暴走し、
それを過剰に言葉に記し替えていくことも、
辟易するくらいの言葉数でたしかにそのままだと異常なのです。
でも清書、推敲前の書き散らしであれば、
作業工程として、このくらいは書いた上で絞りこむことはあり得るような気がするの
です。

そう思いながら読むと、
「発病」が病気というより、暴走による事故のように読めてくる。

それこれ含め、この本のタイトルに、統合失調症闘病記と無ければ、
病気の記録ではなく、一アニメーターの苦悩の青春期の記録と読んでしまえる。

そして、ハッとするのは、
自らのちょっとの逸脱から相当の逸脱までを含めて
自覚して止められず、止められなかった記憶も含めて
意識の中に鮮明に刻まれているということ。

本書の解説で精神科医の岩波明氏が、
統合失調症の当事者が、自らの体験を記したものは、稀にしか存在していない、と、
書いている。
いや、これだけ意識も記憶も鮮明であったなら、
それを抱えて生きること自体が、病気を越えて苦しかろう、
と思うのです。

酔っ払いの記憶すべてを有しながら生き続け
それでも酔っぱらってとんでもないことをしでかしてしまうことを
止められない感じ・・・。と言ったら、
ちょっと不謹慎か。

岩波明は、最近『どこからが心の病気ですか?』(ちくまプリマー新書)を読んだば
かり。
その時に感じた、これを病気とみるか否かは紙一重で、
こんなことがあればこのくらいの気分の落ち込みも荒れもあって当たり前、
これもそれも病気と見るならば、多くの人は一度ならず治療の対象となる経験を持つ
だろう、
と、つくづくと思ったことを思い出す。

同じく岩波明の『文豪はみんなうつ』を思い起こしながら、
(これらを読んだのはたまたまで、岩波氏の本を読もう!と心に決めて読んだわけで
はないのです)
木村俊介さんがインタビューして編み上げた『物語論』を読む。
17人のクリエイターが、クリエイトにのぞむ際の手法についてインタビューをまとめ
たものを読む。

ここで手法として語られている、小林さんの頭の中に生じていることとの境はなんだ
ろう、
僅差、あるいはきわめて類似した頭の動きであるように読める。

『ボクには…』のくだりにある。

「みんな"この一線を越えてしまったら帰って来られなくなる"という、正気と狂気の
境で踏みとどまった経験があるのかないのか、ということだ。」

小林さんはこの文章に、暗にもっと多くの人が踏み越え、かつ生還?しているだろ
う、
みなそれをカミングアウトしていないだけなのではないか?と、告げる。

岩波氏は、この病気は当人の病識(病気であることの自覚的な認識)がないがために
体験記は書かれにくいとも書いている。
病気としては、何かが決定的に違うという判断が専門的にはあるのだろう。
でも、踏みとどまるか、そうでないかの違いであるなら、それは僅差だ。と、思う。

そして、小林さんの書く、
この社会は精神障害者にとって生きにくいけれど、
その生きにくさは、普通の人たちにとっての生きにくさと、変わりない。

そういうことなんだ、つまりは。
そう、合点する。
by shiho_kato | 2011-12-31 20:22 | 読書ノート | Comments(0)

青空に、凧があがる

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仕事納めの翌朝早々に、
むむちゃんと、ぷうちゃんと、実家に向かう。

ぷうちゃんは、あと何回寝れば、と、指折り数えてきたじぃじの家。

朝は起こさずに起きてきた子どもたち。

ぷうちゃんは「きょうだよね、やった〜」

むむちゃんは「ママ、今日は実家に帰るから嬉しいんでしょ」と。

あわただしく、バタバタした出発。
それでも時間通り、お昼前には到着した。

むむちゃんの従姉妹たちふたり改札の柵から身を乗り出して、手を振っている。

その後ろに弟が。
そのさらに後ろの柱のかげから父が、子どもたちを驚かせた。

家に着くと、ベランダに妹と母が顔を出す。
ふたりとも、まぶしいくらいキラキラのピカピカの笑顔で、
おかえり〜、と。


帰ってきました。
今年も、一年を終えて。


****
ぷうちゃんの楽しみは、凧上げとお餅つき。

むむちゃんの好物のお花のお寿司がお昼ご飯に用意されている。
子どもたちはにぎやかに食べたあと、
さっそく凧上げ〜!

運動公園で、子どもたち四人が、4つの凧をあげる。

弟、妹、父、私、見守るおとなも四人。

青空に、4つの凧。
ひたすらに空を見あげていると、
宙空に立っているような。


あぁ空はこんなに広く大きい。
こんなに広く大きい空のなか、いま、私たちはここにいる。
それは小さな奇跡。



あぁ、いつかきっと、むむちゃんの、ぷうちゃんの、帰る場所になれますように。
ピカピカのキラキラの笑顔で、おかえりと、迎えられますように。

いつか、きっと。
by shiho_kato | 2011-12-29 23:27 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

読書日記12/28湊かなえ『境遇』

読み始めて半分までは、さっぱりわからなかった。

3分の2をこえた頃に、ラストが見えた。

珍しく悲しく裏切られるどんでん返しがなかった。

湊かなえ、少し読み慣れきた気がするなぁ。
by shiho_kato | 2011-12-29 19:27 | 読書ノート | Comments(0)

むむちゃんとぷうちゃんに見る、子どもがひろげる子どもの居場所

今日は仕事納め。
昨日に繰り上げて納めてしまう予定だったのだけれど、
やむをえないことなどもあり、出勤することにしました。

冬休みのむむちゃんの行き先に日々困っている。
この二日間は、よりみちのいえに助けられました。
が。

恐る恐る職場で、副校長先生と部長とに相談すると、
連れてきてかまわないですよ、と、
あっさり、ふんわり、かる〜く、言っていただく。

心がほどけるようです。

そして、今朝、ぷうちゃんが泣いてむむちゃんにすがった。

ぷうちゃんも連れて行って、と泣くのではないかと
覚悟をしていたのです。
しかしながら、ぷうちゃんは、
「ぷうちゃんと、ほいくえんにいてよ〜(涙涙涙)」

むむちゃんは、母と出勤、職場見学、
ルンルンの気持ちで過ごしていたのです。

そこへ、ぷうちゃんのジャブ。

本泣きのぷうちゃんに、始めは邪険に扱っていたものの、
しだいに途方にくれて、迷いが広がりはじめる。

ぷうちゃんは、涙を流してむむちゃんにとりすがり、
腕をにぎってはなさない。

そして、出発間際、「わかったよ、ぷうちゃんと行くよ」

そして、保育園。
ぷうちゃんとむむちゃんと一緒に過ごすのは難しい、と
言われていました。
もしも、一緒には過ごせないよ、と言われたら、
ぷうちゃん、あきらめようね、と言い聞かせながら。

ぷうちゃんの「むむとほいくえんですごしたい」熱は、昨日から。
昨日の悲しい泣きっぷりを知っていて、
今朝のさめざめとした様子にも想いを馳せてくれる職員さんのおかげで、
むむちゃんはぷうちゃんと、保育園で過ごせることになりました。

*******

ふたつのことを考える朝。

ひとつは、ぷうちゃんのむむちゃんを慕う気持ちと、
それにこたえる、むむちゃんの姿。

10代のころに、私が共に生きていくのは弟であり、
父や母ではない、と、考えていた時期があった。
母とも、父とも、20年、30年、違う時代を生きている。
私が共に生きるのは、弟となんだ、と。

むむちゃんと、ぷうちゃんを見ていて、それを思い出す。

ふたり、この時代を生きていける。
その種をすでに有していることが目に見えてわかった。
この時代を、同時代を生きる仲間として。

・・・・・・・
もうひとつは、居場所は子どもたちが、切り開く、ということ。

職場の学校の、連れてきてどうぞ、に救われた。
むむちゃんをどうしよう、の不安が、ふっと軽くなった。
そして、むむちゃんがいたから、言い出せた。
学校という職場に子連れ出勤の申し出ができたのは、そこに子どもが居たからだ。
そこにむむちゃんが居るからだ。
むむちゃんの存在は、ちょっぴり「子どもが居ていい場所」を押し広げた。

むむちゃんぷうちゃんの保育園は、いつだって
卒園した子どもたちに、在園する子どもの兄弟たちに寛容。
冬休みの卒園生たちがやってきて、そこで過ごす子どもたちがいて
保育園も、「子どもが居ていい場所」を実践する。

そして、もうひとつ、よりみちのいえ。
4月にはじめたよりみちのいえ、おのずと、自分の子と周辺の子どもたちが集まる。
わが子がいるから、子どもたちがどんな風に時間を過ごすのか、気になる。
目の前に、リアルな子どもが居る。その子たちをともなって、
子どもたちと体あたりで「子どもが居ていい場所」を
地域の中に、さがし、つくり、開拓していくことになる。

「わが子を中心」というところが、社会的な活動として、どうか、と指摘されることがある。
いいでは、ないか。
子どもの育つ社会、子どもの育つ地域は、
わが子の育つ環境を延長していった先に包含されていく。
そこから始めずして、どこから始める。

・・・・・・・・・
母という立場から、
日々を生きているということは、
そのまま子どもたちの暮す場をどうつくるか、ということの実践に他ならない。

子どもという立場から、
日々を生きているということは、
生きるフィールドをすべて子どもの居場所としていく試みに他ならない。

だから、子どもたちよ、ただただ生きて、そこに在れ。

あなたたち自身の存在そのものが、
あなたたちが動かす手が、足が、
あなたたち同時代を生きる仲間と、
この社会の中に「子ども」の世界を確立していく。

子どもたちよ、ただただ生き抜いて、そこに在れ。
きみたちがそこに居る、そこから始まるこの社会なのだから。
by shiho_kato | 2011-12-28 17:46 | Comments(0)

読書日記12/27吉本隆明『ひとり(15歳の寺子屋)』講談社

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ひさしぶりに吉本隆明を読む。

あぁ、なんてウソのない人なんだろう。

飾られない、いつわらない言葉がそこにあることに、ホッとする。

むむちゃんの言葉を借りれば、
「ぜんぶ同じ気持ちが書かれている」
書かれたすべてに、うなずきながら読めることにホッとする。

ときどき使われる比喩だけれど、
仏師が木に埋まる仏を掘り出すように、彫る、のと似て、
心の中にあるそれを掘り出すように言葉で形を与えてくれる。

とりわけ、ひとりであることをどんな風に抱えるか、
について、書かれた下りでは、
丁寧になでられるような、安らかな気持ちで読む。

*****
人は誰でも、誰にもいわない言葉を持っている。
沈黙も、言葉なんです。
沈黙に対する想像力が身についたら、本当の意味で立派な大人になるきっかけをちゃんと持ってるといっていい。
自分や誰かの言葉の根っこに思いをめぐらせて、それをよく知ろうとすることは、人がひとりの孤独をしのぐ時の力に、きっとなると思います

****

頭の力じゃなく、
言葉の力じゃなく、
吉本隆明の力です。

この人がいることを、忘れてしまう時間を、
できるだけ少なくしよう。
思考の、拠って立つ所として。
by shiho_kato | 2011-12-28 17:33 | Comments(0)

木枯らしが吹き、年の瀬の空

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クリスマスを過ぎたとたんに、
職場の高い窓から見える空の色がかわった。

イチョウの黄金色を反射していた華やかな空、
一気に葉を落とす風が吹き抜けた。

ひゅぅぅ〜、の音は、効果音そのものの本物の木枯らしのこえ。

そして、葉の落ちた木々の間の空は
すこしもの憂げ。

今年が終わっていくのを、悲しんでいるようで、
今年をしっかりとかみしめているようで。

そっと、来りし道をふり返る。
あくまで、そっと。

よく、ここまで来たものです。
今年のゴールにまもなくたどりつきそう、
それだけで、ハナマル。

いろいろあった一年でした。
そのいろいろを、ひとつひとつあげていったら、
重くなりすぎるから、
そっとまぶたの奥の向こうの方に押しやって、
いろいろ、と、
みずから、言い含めてしまう。

それでいい、これでいい。
今年も、おわってゆきます。
by shiho_kato | 2011-12-28 16:48 | Comments(0)

読書日記12/26 辻村深月『ネオカル日和』

エッセイを読むと、小説の作風との異なりに、
ホッとする人もあれば、
ハッとする人もある。

辻村深月は前者。

そうか、書きたくて書いてきたんだ。
そうか、オタク的に深入りして興味をもっちゃうタイプなんだ。
そうか、図書室も、図書館も、本屋も、本も、映画も、好きなんだ。
なんだか、友だちになれてしまいそうな、気がする。

作者が見えると、
作品に深くのめりこむことが怖くなくなる。
書き手の姿が見えると、
これは書かれながら生み出されたお話なんだ、と思えるからだろうか。


作者の姿が、生き様が、
作品の色を濃くした作家に故・辻邦生さんがいる。

今朝の新聞で、辻さんのパートナーであり
母校の美術の教授だった辻佐保子さんが静かにひとりでなくなられたことを知った。
今年は母校の看板の女性の先生が相次いでなくなられた。
菅先生、竹村先生、退官後ではあるが辻先生。

命には限りがある、ということを、つくづくと感じる年の瀬。
by shiho_kato | 2011-12-27 16:52 | Comments(0)

読書日記12/20-23 石川結貴『ルポ子どもの無縁社会』中公新書、渡辺淳一『事実婚 新しい愛の形』集英社新書

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クリスマスを前に、『子どもの無縁社会』を読む。

私自身も仕事の中で幾度も触れてきている子どもたちの厳しい現状。

それでも、
それでもあらためて、頭がくらくらする。
これが、本当に、この地続きの日本の中で、
子どもたちに到来している現実の一部を切りとったお話なのだ、と。

家族ごと、身の置き所がなくなることも、
親子で、家族で、他に結びつくよすがを一切合切持たなくなることも、
やむなく、子どもと親とが引き離されることも、
そして、子どもが、親に、明確な意思をもって捨てられることも、
あるのだ。

毎日を、朝を晩を、子どもたちと、
言葉を交わし、食事をし、寒いね、暖かいね、うれしいね、疲れたね、
と言い合えるのであれば、きっと生きてゆけると、
思っている。

だけれど、
そう言い合える環境を、そう言い合える状況を、条件を、
維持するところにも、はるかに高く大きなステップがあり、
私は、きっとそこのところのステップは越えたところで、
「日々をつむいでいくのは、なかなか大変なことだなぁ」、と
実感しているのに過ぎない。と、思いしらされる。

そして、いつ、なんどき、そちら側にいくやもしれぬ危うさと、
決して、そうはならないであろう、確かさとが、
ないまぜになって、せまってくる。

誰も責められない。
子育てを放棄して、日夜ゲームにはまる、親ですら、
責めきれない。
ゲームにはまりながら、得たいものが、
ゲームにはまらずには、得られなくなってしまった、それは、
個人に帰する問題ではないはずだから。

ため息を幾度ものみ込みながら、読み終えた。

***********
続く一冊は、渡辺淳一の『事実婚』。
新たな愛の形、なのだそうだけれど、そうだろうか。

読みながら、
読み終えるころに、
しっかと刷り込まれたのは、
「ひとりでも生きられることを前提にできるほど、
自立せよ。
さらば、婚姻の形態を選ぶ自由はあろう。」
ということ。

自立した収入を得られる未婚者にとっての選択肢であり、
いまの、この社会の、
十分に自らを食わせることのできない収入が
結婚の妨げになっている多くの結婚願望を秘めた未婚者にとっては、
新たな希望ある選択肢にはならない。


二冊の本を読んで、
ひとりで生きよ、
ひとりでも生きられる強さを、したたかさを身につけよ、
この時代を生き抜く術は、そこにあり、
そう言い聞かされている気がして、
ズンと、重たくなった。


はたして、そうか・・・。
by shiho_kato | 2011-12-27 16:47 | Comments(0)