むむちゃんの散歩道

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「自由の相互承認」フィーバー@苫野一徳『教育の力』

新指導要領とか、新たな入試制度とか、森友学園とか、加計学園とか、教育勅語とか、銃剣道とか、共謀罪とか。

なんだか、「教育」の今を知っておかなくっちゃいけないんじゃないか、とにわかに不安になり、重たい腰をえいやっとあげて選んだのが、苫野一徳の『教育の力』
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図書館で行われる国語の授業で、先生が紹介された苫野さんがユニークで親しみのもてる人に思えたので、読んでみたくなった。


P39「公教育の原理(目的)は、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の、<教養=力能>を通した実質化」です。」

の一行を読んで、目が覚めるほどにびっくりしたのです。


そうだったんだ。
(公)教育って、私と、私以外の人たちの自由を認められるために行われるものだったんだ。
これまで生きてきて、初めて知った。
衝撃を受けています。
私がこれまでに学んだりかじったりしきた「教育論」ってなんだったのか、っていうくらい。
ベースにこれがあるって、もっと早くわかっていたら、もっと「教育」っていうものを
我がものとして捉えられたかも知れないのに~~~。


苫野さんのオリジナルじゃなくって、ヘーゲルから始まる原理らしいので、
ようやく私がピンとくるところにたどり着いたっていうことなんだろうか。


特にストンと落ちたのは、「相互の」自由を「承認」する力を養うことが教育って言っているところ。
「私の自由獲得」だったら、ちっともピンと来ない。

「他者の自由を尊重し承認できるようになる」ことなんだと考えるとピンと来る。

私の自由って捉えにくい。ワガママとか自己責任とか、私の自由にかかるフィルターやバイアスが何なのかうまく仕分けられなくて、輪郭を捕まえるのが難しい。
他者の自由はわかる。不自由はもっとわかる。不自由にならないように、自由を阻害しないように。


そうか。他者だ。
だから、ある程度の集団性が必要なんだ。


だってね、
数式も漢字も英語も社会も理科も、
知識だけ学ぶんだったら、個人の方が勉強ははかどるんだもの。

それを越えて(それらの基礎知識を自在に使いこなせるようになることを含んで)、他者の自由を認めることができて、尊重することができて、それでいて自分自身も損なわれない振る舞い方を学ぶための場として「公教育の場=学校」があるのであれば、学校って、けっこう大事な場所だったんだって思える。

(今までどう捉えてたんだ?っていう自問は、ひとまず横に置く)


「「自由の相互承認」の力を養うことを目的とする」
を、頭に置いて、周囲を見渡し、自身を見返し、子どもたちや勤務先や、教育と名のつくあれこれを見渡すと、なんとすっきりすることか。

それを目的としているんだ、とわかることと、
それを目的としているとは到底思えない、ということと、
分けて、右の入れ物、左の入れ物に放り込んで行く。


世の中、なんてわかりやすい。

目的を見失った名ばかりの「教育」が世界を席巻しているから、こんなにいろいろおかしなことになっているんだ。



というわけで、
現在私の頭の中は「自由の相互承認」フィーバーの只中にいる。



(おまけ)
ついひと月ほど前に、友人が、私が興味を持つかもとのことで教えてくれた「この学校でゆくゆくはがつ司書の求人があるかもしれないよ」との報。

よくよく見返してみたら、苫野一徳さんが軽井沢に作ろうとしている「軽井沢風越学園」のことだった。

彼女は、私のことを私以上によく知っているなぁ。
残念ながら、フィーバーはしているものの、軽井沢まで飛んでいくほどフットワークが軽くないお年頃ではありますが。









by shiho_kato | 2017-05-31 23:05 | 読書ノート | Comments(0)

辻村深月『かがみの孤城』

「学校に行きたくない」

と、

「学校に行かない」
「学校に行けない」

の間には彼我のひらきがある。


「学校に行かない」

と、

「学校に行けない」

の間にもひらきはあるけれど、「行っていない」というところで共有できるものがある。



学校に行かない、行けない子どもたちはどうやって時間を過ごしているのだろう。


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鏡を通じてたどり着いた城に集められた7人の子どもたちのお話。
設定や漂う雰囲気が宮部みゆきの『過ぎ去りし王国の城』に似ている。
ふたりとも、それほど作風近くないはずなのだけど。

十代の胸につかえるもやもやっとしたものを、
何に対する勇気とか、何に対するどんな恐れとか、何に対する苛立ちとか、
細かく細かく突き止めて、嘘が無いように、ほつれもからまりもじっくりほどいて、
すっとそれぞれを一本の糸として差し出してくれるフレーズに満ちた小説だった。


少し前に読んだ原ノ内菊子の、「信じるから話しだしてもらえる、信じるから聞かせてもらえる」を、繰り返し繰り返し思い起こした。


学校に行かない、行けない、口を閉ざし説明しない彼ら彼女たちの気持ちを、
よく辛抱強く、とりあげに行ったな。
エライよ、辻村。

さらっと流したり、ありていなもやもやのまんまで放置せずに、
辿って行って、とりあげて見せてくれたことに、
ありがとうを言いたい。
「それ」を胸に抱えているんだって、世の人たちに形ある言葉で示してくれてありがとう。


静かに「闘い続けている」からこそ、
安心して居られる「居場所」が必要だっていうことを、
ただ「安心」「安心」と解くだけじゃなくって、
「闘わなくていい」場所、「闘わなくていい」時間が必要だっていうことを、
丁寧に描いてくれてありがとう。


そして、
「心の生き死に」だけではなくって、
「体の生き死に」まで乗せきって、
再生まではかって、小説を締めくくってくれたことにも、ありがとうを言いたい。


辻村、いいじゃん。
辻村、やるじゃん。


by shiho_kato | 2017-05-30 14:12 | 読書ノート | Comments(0)

大塚玲子『PTAをけっこうラクにたのしくする本』

PTA広報の、5月号の発行配布が終わった。

校正ミスなのかなんなのか、配布後にむむちゃんに、「ここミスってるよ」と指摘されたけれど、もういいの。

完璧なものを作ろうって思っていないから。
みんなで作ったね、っていう、作業の証だけが残ればいいの。


委員長さんも、もひとりの副委員長さんも、5月号の担当じゃないのに、このあと出す号の参考にしたいからと、手伝ってくれて心強かった。

メンバーのみなさん、サクサク進めることに協力的で、私の準備不足もその場で解消してくれるこなれた判断力があって、負担が偏らないように分担し合える協調性があって、タイヘンだったけど、後に残るタイヘンさではなく、気持ちよくお疲れ様でしたーって言えた。

中には、連絡が取れない来ない人も居たけれど、後追い不要。
手伝いたい人だけでやる方が、気持ちも効率もいいもの。


終えた後は、
二学期、三学期の号と、次年度の委員さんの負担を減らせることを、と思い、少なくなってしまったラベルを買い足し、足りなくなってしまっている封筒を買い足し、リストのわかりにくさで混乱したところは、シートの表題を変えて、シートの仲間分けを変えて、リスト自体を作り直した。

作業をしてみてわかった、先に準備しておいた方がいいことと、当日にやること(や場所)は、忘れないうちに、困ったなぁと感じた記憶が消えないうちに、作業メモに作ってみた。

このくらいまでしかできないや。


気持ちによゆーができたので、読んでみた。
『PTAをけっこうラクにたのしくする本』
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違うカタチのPTAのあり方を知って、すこしホッとする。
それもご近所の学校のPTAでなされた改革がメインで紹介されていたから、なおさら。


なんだ、やればできるんじゃん、義務と強制からの解放。

読む限りでは、リーダシップをとれる人次第。
きっぱりと継続への甘えを断ち、新たな試みへのリスクを恐れず軽やかに負えるリーダーが居れば可能なよう。

やろうとする人がいるなら応援、お手伝いはしたいな、と、思う。
思うだけです、ごめんなさい。


by shiho_kato | 2017-05-27 19:09 | 私ノート | Comments(0)

「勉強しなさい」(オマエモナ)「スマホいじるな」(オマエモナ)ー我が身を正さん

昨日、ついうっかり、「むむちゃん、スマホばっかり!」言ってしまった瞬間。
(オマエモナ:もうひとりの私の心の声)
即、自分に返ってきた。

そうだよ、きっと私のスマホに触る頻度があがっているからなんだよね。(PTAや、かるたの連絡回数がこの2ヶ月くらい倍増しているから・・・という言い訳)

我が身を正してから、言えるようでありたいよなー、って思う。
(思い先行で、70点程度の出来だけれど)



保護者会に行って驚いたこと。
「うちの子、勉強しないんです。毎日「勉強しなさい」って言い続けてもう疲れて嫌になります。」
次から次へと、半数以上7割近くが、「うちの子勉強しない」ネタだった。

最後にそれらを受けて、先生がゆるりと
「「勉強しなさい」を言うのは私たち教員の仕事ですから、どうぞご家庭ではこらえてください」
と引き取ってくださって、ホッとした。


↓これは、以前、子どもの貧困について日本女子大でお話した際に紹介した資料だ。
「図表1-1-17親の子どもへの接し方と子どもの学力との関係」(出典 文部科学省:お茶の水女子大学委託研究(平成20年度)より)

グラフの見方は、上に高く伸びるほど、好成績との相関関係が強い。下に低く伸びるほど、悪成績との相関関係が強い。

読み聞かせをしたり、美術館博物館に連れて行ったり、家に本がたくさんあったり、ニュースや新聞記事について一緒に話したりすることが、子どもの学力に好影響を与える。ということだ。

日本女子大では、Wワークやトリプルワークをしないと必要な収入が得られないひとり親が読み聞かせや一緒に話す時間がなかったり、本を買うお金や美術館博物館に連れて行くお金が無いことが、食べられない着るものが無いとかそういうことだけじゃなくって、影響があるということについて話した。
このデータを見て、紹介しながら、胸がしくしく痛んだことを思い出す。

そして、親の目線として、これは忘れないでいようと思った2つの項目。
「ほとんど毎日「勉強しなさい」と言う」のずば抜けてマイナスの影響。
「親が言わなくても子どもが自ら勉強する」のプラスの影響。


そもそも私自身が、学校(塾を含む学力を上げるだけ)の勉強がいちばん大事である、とは、まったく思っていない。
なので、そうそう「勉強しなさい」を連呼することは無いような気がする。

でも、ついうっかり易きに流れて言ってしまいそうな、気軽なワードでもあるんだ。
「テレビばっかり見てないで、勉強しなさい」
「スマホいじってないで、勉強しなさい」
「ぐずぐずだらだらしていないで、勉強しなさい」
あぁ、なんて易い言葉だろう。

保護者会では、ほぼほぼ「ゲームばっかりしていないで、勉強しなさい」だった。
ゲームを与えたのは誰なのか?未就労者である子どもたちの持ち物は、大人がコントロールできてしまう。(収入を得ることができない子どもは、大人からお金なりモノなりを得るしかないから)「ゲームばっかり」のおおもとの原因をそうして作っているのであれば、その後のことは、喜ばしくても残念であっても引き受けるしかない。


私自身は、
「マンガばっかり読んでないで、勉強しなさい」とは、冗談でしか言えないと心得よ、と戒めている。
我が家にあるコミック類は私が責任をもって、提供しているものたちだからだ(一部サンタさんのプレゼントもあるが)。
(友人から借りてくるとか、図書館から借りてくるとか、世界は広がってゆくので、
私が持ち込んだもので無いものに関しては図々しくしゃあしゃあと文句を言う。)

ヒトがゲームをしてる姿を見るのは好きじゃないので、私自身もゲームをしないようにしている。
ヒトがスマホばっかりいじっているのを見るのは好きじゃないので、私自身もいじってばっかりいないようにしている。(が、なかなか難しい。)

むむちゃんにスマホを買い与えて、あーあ・・・と思うこともあれば、良かったと思うこともある。
購入費や利用料金を私が払っている間に、程よいスタンスでスマホを扱えるようになるようにと思って渡したのだから、
あーあ・・・、も、良かったも、私自身の感情は私が引き受けて、時々ブチブチ言いながら、
望ましく無い使い方の手本にならないよう、私自身の身仕舞いをしゃんとしてなくっちゃいけないと思う。



そう。「勉強しなさい」と言いたくなる親は、まず自身が勉強するといい。
勉強する姿を子どもにガンガン見せるといい。


たとえば、はじめにあげたような「勉強しなさい」の連呼が、学力に悪影響を与えるとかは、ほんと、知っておくといいと思う。
勉強しなさいって言うよりも、ニュースや新聞記事に書かれている出来事を一緒に話すネタを集めるために新聞に目を通すとか、博物館や美術館に連れ出すつもりでまずは自分が下見に行くとか、すればいい。


「勉強しなさい」って言える時間に、家に居られるのだから、尚更。
家で何をしているかわからないくらい、外で働かなくっていいのであれば、尚更。
と、子どもの貧困的思考の続きでそう思ったりもする。

(ちなみに、この調査は小学校6年生対象だ。だから、中学生は全然違うと考えるか、似たようなものだと考えるかは、人によって違うだろう。)




子どもたちが伸びていくために、必要な親との関わりについて考えるときの参考材料として
私が持っている資料の一部をメモがわりに載せておく。(自分で見返すため)


先ほどの文部科学白書から。
①平成21年度文部科学白書 第1章「図表1-1-18親の普段の行動と子どもの学力との関係」(出典 文部科学省:お茶の水女子大学委託研究(平成20年度)より作成)
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にわかにお菓子作りをしてみたり、これを見て本を読みはじめたり、ワイドショーではない時事ネタに関心を持ったり、コンサートに出かけたり。
時間とお金が許すのであれば、どれもこれもいいじゃないか、生活が豊かになりそうだ。


内閣府「平成25年度小学生・中学生の意識に関する調査」
この調査を読むと、反抗期と言われる中学生たちが、親を信頼しているからこそ安心して反抗できているんだなー、と思ったりする。

ベネッセ教育総合研究所「小中学生の学びに関する調査報告書(2015)」研究レポート5自己効力感が高い小・中学生はどのような子どもか」より
(この調査は、母親ばっかりをターゲットにしているところが気持ち悪いのですが。)
この調査を読むと、何はできなくとも、子どもたちに対し、励まし、信じ、よくがんばってるなーっと、思える私でさえあれば、あとはなんとでもなるんじゃないかと思えて気が楽になる。
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ベネッセ教育総合研究所の調査は、時間があればつまみ読みするといいと思う。なかなかできないけれど。






by shiho_kato | 2017-05-26 20:15 | 私ノート | Comments(0)

「うちの子」への敬意

勉強しなさい、オマエモナ、の、追記。


「うちの子、ほんとうにダメで」
どこがどうダメか、ということが続くお話を聞くのが苦手だ。

よくありがちな卑下、へりくだり、ではあるけれど、
なんだか、嫌な気持ちになってしまう。

むしと、また、こんなことをがんばっていて系のほめあげ型の方が、聞いていてホッとするし、
私がむむちゃん、ぷうちゃんについて話すとき、そういう紹介の仕方でしか話せない。
話せたとしても、私は彼のこんなことについて悩んでいる、というくらいだ。


どうして嫌な気持ちになるのかな、たかだかその程度で・・・
ともやもや考えていて、ようやくその正体に気づいた。

「うちの子」は、所有物では無いからだ。

わたくしを卑下したり、謙遜する、わたくしが所有するわたくしに属するものでは無いからだ。

他者である「その子ども」を、「ダメで」って言うことは、悪口と一緒。
ヒトの悪口なんて聞きたくないよね。

うん、そういうことか。


わかった。
これで安心して、私は、むむちゃん、ぷうちゃんのいいところをあげられる。

それは自慢ではなくって、彼、彼女への敬意であるのだから。

by shiho_kato | 2017-05-25 16:32 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

大崎茂芳『クモの糸でバイオリン』

「蜘蛛の糸を19万本集めて、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のように人が蜘蛛の糸にぶら下がることに成功」したそうだ。

ヒトがぶら下がることに成功した、その次にチャレンジしたのが「バイオリンの弦」
とは言うものの、大崎さん自身がバイオリンに触ったことが無かったので、バイオリンレッスンに通うことから始めたとか。
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うーむ、蜘蛛の糸の研究に40年を費やすことができる。
なんて幸せなヒトなんだ!!

その結果。
蜘蛛の糸を弦とするバイオリン演奏に成功した。


夢とロマン。
なんていう甘ったるい言葉が現実に追求できる。
そんな勇気をもらえる一冊だった。
(大崎さんの本業はコラーゲン繊維等の研究だそうな。)

そして、何の役に立つとか立たないとかを抜きに、そのことに人生を費やすことができることの豊かさをしみじみと実感できる一冊だった。



人類の平和は、この目的的ではない、自身の好奇心の追求に答えがあるのではなかろうか。
世俗にまみれすぎてて、平和から遠ざかってないかしら、と、我が身を省みる。

by shiho_kato | 2017-05-24 18:49 | 読書ノート | Comments(0)

大山淳子『猫弁』シリーズと『原之内菊子の憂鬱なインタビュー』

『猫弁』
お弁当のお話ではなく、弁護士のお話。
あたたかくて面白かったので、5冊せっせと読んでしまった。
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(『猫便』『猫弁と透明人間』『猫弁と指輪物語』『猫弁と少女探偵』『猫弁と魔女裁判』、魔女裁判を読んだら、以前にも読んだことがあったことを思い出した。忘れるって素晴らしい、二度楽しめるということだ)

正しくあろうとすることは、とても難しく、
最終巻の後書きで筆者が言っているように、
「自分でぜんぶ背負うのがいい」
他者に求め始めたら、自他ともに崩壊するしかなくなる。

そして、正しくだけある人と接するのは、疲れることだ。
鈍感力の権化でもなければ、正しくばかりいるのは難しいことだから。

それでも、この小説を読んでいて清々しいのは、弁護士であり「正義」に近いところの仕事をしている人が、「正しさ」を実直に求めるがために不器用だからだ。
「正義」と、「正しくあること」には乖離があることをぜひ、知っていて欲しいと思う。

私自身は、正しく真っ直ぐになんか居られない。
自分の内なる声には、それなりに向き合って、どう処理し、外にどうあらわすかは、ちょいと考えよう。
そのくらいの正直さを持ち合わせていればいいや、って思う。


猫弁シリーズが面白かったので、大山淳子を続けて読む。
『原之内菊子の憂鬱なインタビュー』
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「原之内菊子」は「腹の内、聞く子」の意だ。

聞き女として生まれてしまった菊子の前に立つと、人は話したくなる。
お腹の中に貯めていたことを話したくなる。
お腹の中に貯めていない人は話したくならない。

「話しながら、取り散らかったものを引き出しの中に仕舞う作業をしている。」

うんうんそうそう、うなづきながら読んだ。

菊子の祖母が言う、「話したくなるのは、菊子が相手を信じているからだ。」と。
話し出す側が菊子を信じるのではなく、まず聞く菊子が相手を信じていることが、相手に伝わるから話し出す。

さらっと書かれているけれど、とっても大事なことを言っている。

話してもらえる人になるために、信頼されるために、どうすればいいのか、ではない。
相手を信じる私になるために、どうすればいいのか。

そう転換したとたんに、「自分ごと」になる。
ということは、転換する前は、「相手ごと」だったということだ。

チャイルドラインを頭に思い浮かべながら、そんなふうに「子ども」と「受け手」を捉えていたかどうか。できていたような気もするけれど、いささか自信が無い。

「子どもに信頼される大人になる。子どもに選ばれる大人になる」というメッセージは多かったけれど
「子どもを信頼する大人になる」というメッセージは、はたしてあっただろうか。

子どもを信頼していなければ、電話を受けられない。という前提の置き方はあれど、
そこを高め深め厚くしていこうという考え方はあっただろうか。

楽しく読んでいた小説に、ふいに突きつけられて、おっと、と揺らめく。

by shiho_kato | 2017-05-22 16:51 | 読書ノート | Comments(0)

15km・2時間・350円ー私の足の使い出

毎週土曜の夜は、茗荷谷のかるた会館まで、むむちゃんを迎えに行く。

迎えに行く時間を有効に使いたくって、リュックを背負って走って行ってみることにした。
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およそ16kmちょっと。2時間弱でたどり着くことができた。
学生時代によく歩いたアルバイト先の出版社への道を、さかのぼって茗荷谷へ。
当時への、懐かしさと、未来が雲にかかってぼんやりしていた気だるい重たさを思い出しながら。

茗荷谷には筑波大の東京キャンパスがあり、今日は筑波大のダイバーシティのチームの人と、そこで面接があった。
きれいなトイレで悠々と着替え、ラウンジでゆっくり捕食をして、時間ぴったりに面接へ。


電車だったら所要時間50分くらい、片道341円。



翌日曜は、よこはま月例マラソンへ。
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5kmと3kmのレースを走らせてもらう。
レースを走ったあとは、ふたたび走る格好に着替えて走って帰る。

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およそ15kmちょっと。1時間45分くらいで帰り着くことができた。

電車だったら所要時間50分くらい、片道388円。



土曜と日曜、足を使った移動を試してみて、
15km前後の距離なら、交通費にして350~400円程度の範囲を、2時間弱くらいで走って、へとへとに成りきらずにその後も通常運行できる見込み。


汗をかき毒を出し、ぼんやりと自分にふける時間を手に入れる。

ただ迎えのために、まるで「むむちゃんのためよ」感たっぷりにあくせくしているよりも、
私の時間の堪能であるほうが、余程良い。


交通費の節約にもなるじゃないか、と思ったけれど、走り終えたあとの食べたり飲んだりの補給で、ほぼ同額あるいはもちょっと多く、消えた。







by shiho_kato | 2017-05-21 16:58 | マラソン、かるたノート | Comments(0)

パンを焼き忘れた朝は。

夜中にふいに目が覚めた。
あ、朝のパン、焼くのを忘れた。

冷凍庫に山崎の食パンが冷凍してあるからいいか・・・。
眠気が勝って寝てしまう。


朝4時過ぎに目が覚めた。
今からホームベーカリーに仕込んでも間に合わないなぁ。
スマホを手繰り寄せて、短時間で作れるパンなんて、ないかしら。調べてみる。

クックパッドさまさま。
混ぜて焼くだけ「30分で焼けるパン」を教えてくれる。

安心して朝ランに出た。
帰ってきてシャワーを浴びて、パンづくり。

薄力粉・強力粉を50gずつ、スキムミルクと砂糖とお塩とベーキングパウダーを入れて、
菜箸でぐるぐる混ぜる。
混ざったら溶かしバター10gを流し入れて、ぐるぐる混ぜる。
お湯を50cc、混ぜながら少しずつ加える。
全部混ざったら、2分間手でこねる。
4等分して丸めて、190℃で20分焼けばできあがり。
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丸めたところでチーズとレーズンを埋め込んでみた。

3人で食べるには、ちょっとボリュームが少なかったけれど、とっても美味しい。
むむちゃんが、「また時々作って~。」と言う。
今度は、チーズとベーコンを埋め込んでみよう。チョコチップもありだ。
ドライフルーツはどれを入れても美味しそうだ。


米粉バージョンがあれば、このくらいの手順なら、千葉でも作れるかな。




テレビでは、「共謀罪」が衆院で可決されたと騒いでいる。
「安保関連法」とか「特定秘密保護法」とか「共謀罪」とか、時代錯誤も甚だしい法案を、次から次へと下衆な方法で成立していく。
森友学園とか、加計学園とか、権力を私物化している状態を誰も止められず、罷免もできないでいる。
ロクでもない法案が次々できて、私たちはどこでこのバカげた知性の低い政権に、こんなにも大きな力を持たせてしまったんだろう。

新聞の天声人語に、国民はどこかでこの国は私たちを守ってくれると信じているのでは無いかと書かれていたが、森絵都さんのほんとの言葉をできれば、原文のママで読みたい。
私は、この国に、「私」を守ってくれる力も、守る気も、そもそも無いだろうよ、って思っている。
期待なんざ、できやしねーや、って思っている。
守れるほどの知恵の持ち合わせは、この国を国っぽく見せてる内閣とか国会とかには、無いだろうよ、って思ってる。

国とかなんとかとは無縁なところで、地道に日々の生活の営みを太くしていくことのほうが、より「生き延びる」ことにつながるんじゃないかって。

でも、この「無関心」があやつらに、不必要な大きな力を与えてしまっていたんだとしたら、私は間違っている、ということだ。


憲法も変えるそうだ。
自衛隊を憲法に明記するそうだ。
憲法ってさ、私たちが守るものじゃなくって、私たちが為政者に守らせるものなんだよね。
なのに、なんで為政者側が、変える変えるって旗を振れちゃうわけ?
じわじわ腹が立ってくる。為政者どもが、国民の代表権を有しているから?
品性のかけらも無い、知性の片鱗すら感じることのできない、下劣な発言を繰り返すあの下品なおじさん集団たちに、私の代わりに代表よろしくなんて託した覚えは無いっすよ。
って言いたくなる。間接民主主義って、多数決の弊害だ。

ブツブツブツブツ、ふつふつふつふつ、イヤーな気分が立ち上がってきそうになるのを、全部横において、パンを作ることに集中だ。


美味しいパンになりますように。
ぷうちゃん、むむちゃんが喜んでくれますように。



こんな辺境でのつぶやきすらも、共謀罪のなんたらかんたらで、国家への重大な犯罪への意志・意図を持っている危ないヤツだって、逮捕しにくる可能性があるってことだろうか。

ちゃんちゃらおかしくって、相手にしてらんねーぜ。

って、ことに、時間と情熱注いで高い報酬を得ているおじさんたちには、何度でも腹が立つ。どこを切っても腹が立つ。いっそ北朝鮮のミサイルが総理官邸にぶち込まれないかな。
って、あっぶねー、こんなこと書いたらつかまっちゃうぜ。





頭の中で何をぐるぐる考えていようとも、今朝必要なのは美味しく焼けたパンと子どもたちの笑顔だけ。

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by shiho_kato | 2017-05-20 16:11 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(1)

本を読む「自由」

地域研究(宿泊学習・修学旅行)ウィークの直前、
「地域研究で読みたいので」と数人続いた。
移動時に読む本だそうだ。

ふわっと、明るい気持ちになった。


・・・

電車移動の時間は、絶好の読書タイムだ。
団体行動が苦手だったので、修学旅行とかキャンプとか合宿とか、グループで動く時間が長い行事は、ツライ。

行く前から緊張がはじまる。

実際、行ってしまえば、みなとの時間や新たな場所を楽しむことができたりことの方が多いのだけれど、
あぁ、これから数時間、数日、ひとりになれないんだなー、、、と思うと気が重くなる。
(小学生のときは、おそらくはその緊張も相まって、修学旅行当日に熱を出し、お休みした)


この団体行動で、何より厄介なのは本が読めないことだ。
せっかく長い時間電車に乗るのに。
興味がイマイチ持てない話題にも耳を傾けてみると、面白かったりもするのだけれど、

(あぁ、本が読みたい。あの続きが読みたい。)
ぼんやり中空に心を飛ばしながら、その場に居ることも少なくはない。

本を読まぬ時間を長く続けるというのは、私には苦行なのです。


・・・・

生徒たちが、地域研究で読むので、と本を借りていく姿を目の当たりにして、
なんとも清々しかった。



彼らは、読むんだ。

移動の車内で、あるいは着いた先のお部屋で。



あぁ、私にそうできる「自由」が身についていたならば。
修学旅行はさぞや、楽しく軽やかに過ごすことができただろうに。

本を持って行くことは禁止されていたのだろうか?持って行っても良かったのだろうか?
それを確かめることさえできなかった当時の私はなんと不自由だったことか。



走っていたり、かるたをしていると、練習や試合での遠征がある。
できれば、この移動の際にも、ひとり本を読んでいたい。
一緒に居る相手がむむちゃんだったりまささんだったりすることをのぞいて、
おもむろに本を取り出し広げることを躊躇し、逡巡の後にようやく開く。

開けるようになっただけ、成長したような気がするけれど、
私はまだ「自由」の獲得がうまくいっていないなー。と思う。


もし、ご一緒のときに私が本を読み始めたら、
私の自由を保証してくださっているのだと、思って欲しい。



by shiho_kato | 2017-05-17 11:14 | 私ノート | Comments(0)