むむちゃんの散歩道

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いつもの年末

いつもの年末。

仕事は他のみなさんより一日早く終える。
一足早い冬休みは、午前中にかるた会を行い、午後は実家へ移動。

がんばるのは、米粉のパンを焼き、米粉のクッキーを焼くことばかり。
大掃除など、いつだって他人事だ。
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夕暮れ前に実家に着く。

みな各々、今年のカレンダーを書く。
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翌日はお餅つき。朝から火を起こす。
お餅をつく時間よりも、その準備の、火を起こし、起こした火を維持するために枝木を拾い、温かい炎の周りに集まり、お芋を焼いたりしながら、もち米を蒸す、この時間が楽しみで豊かなんだ。
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今年はふた臼。来客があり、いつもより蒸す時間が長かったことは、良いほうに転んだと思う。
だって、とてもやわらかいお餅が、いつもよりも短時間でつきあがった気がするから。
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ひと臼目で、のしもちを二枚。
ふた臼目は、半分はのしもち一枚にし、あと半分は、みなでこれから食べるお餅やあんこ餅にするためにちぎって丸める。
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美味しいお餅をおなかいっぱいに食べて、午後はお泊り。

今年はサンライズ九十九里へ。
みなよりひと足早くでて、ゆっくりと走って向かう。
走りながら、ゆっくりゆっくりとこの一年、思い巡らせる。
へこんだり、腐ったり、腹を立てたり、苛立ったり、怒ったり、悲しんだり、やきもきしたりも無くはなかったけれど、心臓が止まるほど驚くようなつらさも悲しみも苦しみもなく、おおむね穏やかに過ごすことができたような気がする。
みな、こうしてそろっているのだから。それがいちばん大切なことだ。

二時間余りの振り返り時間を経て、ホテルに到着。
ちょうど夕暮れ時。
遠くに富士山のシルエットを映したサンセット。
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みなで温泉に入り、たっぷり隅々まで体を温めた。
好きなものを、好きなように食べるバイキング。
食べられないものがあっても、苦手なものを避けたって、気づかれないよね、ラッキー。

食後は眠くなるまでボードゲームやジェンガで遊んだ。(ホテルで貸し出ししてくれる)
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翌日は、早起きして浜辺へ。「日の出、出て来い」とにらめっこ。
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残念ながら、雲が切れて姿を現した。
冷えた体を朝からしっかり温泉で温めた。
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ゆっくり朝食を食べてチェックアウト。
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昭和の森公園で遊ぶ。
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午後は帰りがけにカラオケに行く。家族でカラオケなんて初めてだ。
むむちゃんは、学期の終わりのたびに、お友だちと一緒にカラオケに行っている。
私は音感に難があり上手に歌えないけれど、自分が歌うプレッシャーの無いカラオケで上手な友達の歌を聴くのは好きだ。みなで知っている歌を歌うのは楽しい。
だから、音楽が好きなPちゃんも、楽しめるんじゃないかぁ。と、思い。

むむちゃんが上手に歌ったけれど、Pちゃんも、みぃちゃんもたくさん歌った。
だんだんだんだん、たくさんマイクを握っていたい気持ちになるのがよくよくわかる。
小さな新しい経験をみんなでできた。小さな新しい思い出を一つ追加。
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翌日は、運動公園で凧揚げ。
Pちゃんが行かないのは、ちゃんと自分のお疲れを把握し、休むコントロールができるようになったからだ。
すねるでもない。

上空の風が強い、凧揚げ日和。走らなくても、どんどん上がり、気ままに空を舞い続ける。
風と、子どもたちの根競べは、風の勝ち。
勝った風は、ご褒美に、凧をひとっつ私たちから奪って高く高く運んでいった。
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今年も無事に一年を終える。
そのありがたさをしみじみと噛みしめる。

# by shiho_kato | 2017-12-31 13:03 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

望月衣朔子『新聞記者』

報道はダメだな。
と、思うことが増えた。


情報を自分自身であれこれをつなぎ合わせて解釈する力をしっかりと持てないと、ダメ。
テレビのニュースも、新聞も、あくまで情報を得るための箱でしかない。

メディアは、深めることも、掘り下げることも、無い。
論説は刹那的で、その解釈は、不安定な揺らぎゆえに当てにならない。

森本学園のこととか、加計学園のこととか、
ほんとだったら、しっかり決着を導き出すまで追い込める報道機関でなければ。
そうじゃなければ、権力を民間側から監視する役割を担えないじゃないか。って思うんだ。


あやふやな情報や、それまずいだろう政権決定をする時に別の情報をかぶせて消え去らせてしまったり。

メディアと権力が結託していると、ロクなことがないってことを、
この1、2年、ものすごく学んでいる。

市民サイドの発信も、その思考のありどころを把握するのには、一定期間、定点観察する必要がある。
信頼できる人だと思っていても、時にあれっと考え方が変化する人も居る。

フィルターをかけるところから自分でしなくてはならない時代。
大きなメディアだけでなく、小さなメディアにも、私たちは直接触れる機会が与えられている。
自由度は増したのかもしれない。
その一方、チャンネルが多いことにもたれて、発信する側が自らに課す厳しさを緩めているようにも思える。

もし情報に振り回されたとしたら、
受けとめる側が、悪いんだ。自己責任だ。って言われちゃいそうな気がする。

納豆がいいと聞けば納豆を買い、もやしがいいと聞けばもやしを買うのは、
即、情報を鵜呑みに右往左往する視聴者が悪いんだよね、って、発信する側も町の人々も、ちょっとエライ人たちも思っているんじゃないのかな。


そんなことを思いながら読んだ。
望月さんの、個人として気になってしまったことを、記者として真摯に追いかけようとする姿勢は、記者レベルでは立派な方に入るのだろう。

取材で問いきれない、追い込みきれない、伝えきれない、書ききれない、もどかしさや口惜しさも伝わる。
それを超えて行け、と思う。
所属する組織に振り回されずに、組織を振り回して行け、と思う。


# by shiho_kato | 2017-12-30 12:37 | 社会&地域&子どもノート | Comments(0)

クリスマス

今年のクリスマスは、雪コロクッキーとチョコレートケーキとダブルで!私がんばった。
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ビーフシチューならぬ、ポークシチューは、
塊の豚肉に焼き目をつけてから煮込んだので、良さげに見える。
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野菜の高騰で、サラダづくりが難しい。
ブロッコリーとてお安くなんか無いけれど、登場率高し。

一年をがんばったむむちゃん、ぷうちゃんには、サンタさんがお望みのプレゼントを持ってきてくれた模様。
私、ママサンタからは、むむちゃんにリュックと『下鴨アンティーク』6巻セット。私が読みたいやつ。
ぷうちゃんには、コミック『球魂』16巻セット。私が読みたいやつ。

これで、無事に冬休みに突入だ。
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# by shiho_kato | 2017-12-25 22:35 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

北斎とジャポニズム展@国立西洋美術館

国立西洋美術館で開催中の北斎とジャポニズム展へ。

原田マハの『たゆたえども沈まず』に感化されて。

モネやマネやドガやセザンヌや、私でも知っているような画家の作品と
北斎の浮世絵が並ぶ。

油絵と、平面で細い線の描画と。

展示にはもっぱら『北斎漫画』という、北斎のスケッチ集が用いられていた。
スケッチであるので、筆の線画で、色もないわけだ。
なのにどういうわけか、北斎の作品のほうが肉厚に立体感があって見えてくる。
不思議だ。

骨接ぎの専門医に身体の構造・筋肉や骨のつくりを学んだそうだ。
それが厚みをつくっているのかな。

『北斎漫画』のスケッチ集からとられた作品は、ニヤリ、クスリと笑いたくなる絵が連ねられていた。
展覧会の画集ではなく、この『北斎漫画』そのものを読みたい(観たい)!!


ぐりとぐらの原画かと思うようなスケッチや、靴職人の小人たちのスケッチのようなものまである。「葛飾北斎」がそういうような絵を描くなんて、ここに足を運ばなかったら、一生知ることは無かったなぁ。
そういう発見があるから、なんでも観てみるものだ。
自分の関心直行ストレートだけで物を見聞きし、知ろうとすると、世界が狭まってしまっていることに気づけない。



迷って手ぬぐいを買わずに帰って来たのだけれど、やっぱり買えばよかった!
まだ会期は1月28日まで続くので、それまでに寄ることができたら。
# by shiho_kato | 2017-12-24 12:04 | 読書ノート | Comments(0)

鈴木るりか『さよなら、田中さん』

とても、良かった。
とても、とても、良かった。

14歳の小説家デビュー、斜めに見ていたのです。

でも『さよなら、田中さん』、文句なく良かった。とても良かった。
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作風が西加奈子に似ている。
途中で、西加奈子の『漁港の肉子ちゃん』と重ねた。
西加奈子のようなクセがないところが、また良い。

よくよく人を見ているなぁ。
見たものを、思い浮かべたものを、まんま文字に落としていける自然な呼吸が身についているんだなぁ。

誰が書いたかをのぞいても、この作風は好き。
同じような作品を、読みたい。って、思う。

・・・・

この小説には、彼女が小学校4年生時に書いたもの、6年生時に書いたものも、おさめられている。

そうなんだ。
子どもたちの頭の中で心の中には、いろんなストーリーがおとずれる。

自分は捨て子物語だ、とか、実は異国のお姫様物語、とか、天涯孤独の物語、とか、
いじめられっ子物語、とか、友だちとけんかする物語、とか、ヒーローになる物語、とか。

空想の中の、妄想の中の、描かれるそれらの物語の数が多ければ多いほど、生きる耐性になる。

どんな現実も、それらのストーリーのバリエーションの中に取り込むことができさえすれば、生き延びることができる。
物語には展開があり、次の展開を待てる力があれば、今をやり過ごすことができる。
現実と空想のあわい(間)に身を置き、行ったり来たりできる力があれば、何があっても生きていくことができる。

だから、物語を読むことが、物語をたくわえることが、子どもたちには大事なんだ。

なぜ、子どもたちに、かと言うと、大きくなるにつれて知る現実を構成する多くの要素は、
空想や妄想の自由なストーリー作りを邪魔するからだ。

たとえば貧困の構造、経済や政治の構造、教育システム、国の成り立ち、etc.
知識としてのそれを、知れば知るほど、自由なストーリー展開には「待った」がかかる。

ほんとうは、教育も、政治も経済も、貧困も、一断面にしか過ぎず、
まるっと一人の「生活」とか「人生」とかが、何よりも真実で大事なものなのだけれど。
生活や、人生の、部分部分を微分積分すると、教育とか政治とか社会とかの影響をちょいちょいと受けていることに気づくというだけのことなのだけれど。それらの部分は私をまるごと支配し得ない。

貫くべきは、わたしは「どう生きるか」であり(わたしの人生)、わたしは「今日をどう生きるか」である(わたしの生活)。

・・・・

鈴木るりかさん、14歳は、まだ社会の構造を学んでいないだろうし、貧困の諸相も、貧困のからくりも、それが人をどのように損ねたり損ねなかったりするかも、知識としては学んでいない。

それでも、描けるのは、生きているヒトをよくよく見ているからだ。
逆を言えば、生きているヒトをよくよく見ていれば、社会の構造や貧困の諸相やからくりの端緒をつかまえることができる。

ほぼ同時に、井手英策他共著の『大人のための社会科』を読んでいた。
流されないために、ピン押ししておくべき知識はあるなと思いながら読んだ。

もっぱら小説読みのわたしが、読む小説・読む小説を目の前の社会を読み解くチカラに変えることができるのは、
大学生になったいっときバカみたいに1,000冊あまりの新書を一気に読み通した底力みたいなものがあるからだ。

私に限って言えば、順序を違えなくて良かったと思っている。

小学生までの物語読みがあり、中・高生になってそこに随筆・詩・短歌読みが加わり、大学生・社会人初期の新書読みがあり。

ストーリーの蓄えがあったからこそ、人の心に迫る言葉の力への蓄えがあったからこそ、
現実のさまざまな諸相の「知識」を注入しても、人を見る目が「型どおり」にならなかった。

知識を先に蓄えていたならば、細分化したパーツに目が行き、
まるっとそのヒトを見る目を持ち難かったことだろう。



鈴木るりかさんの『さよなら、田中さん』は、そんなことを考えさせてくれる小説だった。

物語を浮かべることのできる彼女のチカラは、子どもたちの誰もが持つチカラだ。
でも、彼女は優れた書き手だ。
浮かべることと、書く事には、大きな大きなハードルがあるから。

だから、書いて欲しい。
どんどんどんどん、書いて欲しい。

子どもたちがその年齢で心に浮かべるものたちを知りたいから。
かつて多数の物語を浮かべて過ごしたあの時代を忘れずにいたいから。

# by shiho_kato | 2017-12-08 17:21 | 読書ノート | Comments(0)