むむちゃんの散歩道

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字を書きたい@神保信長『字が汚い』

ぷうちゃんは筆圧が強い。

そのため、板書が追いつかないことがあり、漢字の宿題は時間がかかり過ぎて書きながら寝ちゃうし、作文の宿題は書きたいことに書くスピードが追いつかず「書くのタイヘンなんだよ」とシクシク泣き、挙句の果て黙って学校を休んでしまうくらいに疲弊するらしい。

鉛筆の持ち方や、濃い鉛筆で力を入れなくても書けるように工夫を重ねて、だいぶマシになってきたけれど、以前の方が字はキレイだった。

キレイきたないは置いておいて、私はペンを持って字を書くのが好きだ。
漢字の書き取りの宿題なぞ、ぜひやらせていただきたいくらい。

好きではあるけれど、機会は減った。
(今週書いたのは、ぷうちゃんとむむちゃんが学校に提出する書類にサインしたくらい)

圧倒的にキーボードを打ったり、タップしたりすることの方が多い。
PCやスマホが、手持ちのものとなって、おそらく文章を書く量は圧倒的に増えている。
このブログも、もちろん。
考えたりすることのスピードと書くスピード、手書きのときの追いつかない焦れったさは無くなった。

おそらく、私に限らず、総体的にひとりのヒトが生涯に書く文章量は、増えていると思われ、
言葉を組み立てて言葉で己を表現しようとする行為の分量が増えるのはいいことだ、と、思う。
書くというのは浅いにしろ深いにしろ、我の中にあるものを取り出す行為だから。


それとは別に、手書きで文字を書きたいと思う。

妨げているのは、時間。
時間が足りない。
書き写したい言葉、刻んでおきたい言葉などは、手でメモを取り、書き取りたいと思う。
思うだけで、実際には写真に取ったり、キーボードで打ったり。


『字が汚い』は、字が汚い筆者が、きれいな字が書けるように、あれこれ美文字本を試したり、ペン字教室に通ったりする。
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導き出した結論は、キレイな字を書くには、ゆっくり時間をかけて書くこと。
ぷうちゃんがそうだったから、うんうんうなずきながら読む。

そして、その人なりに味のある字は、キレイきたないを越えて、成功している字だということ。
まわりにいる、父の字、N本さんの字、M木先生の字を思い浮かべる。
どれも署名がされていなくても、その人の字であることがわかる字であり、時折読めなくて四苦八苦する字であり、今後もその字で書き続けて欲しい字である。


今年のお正月、筆を持って書き初めをしながら、「やっぱり字を書くのは気持ちがいいなぁ。おばあちゃんにひと月に一度くらい葉書を送る年にしよう」と、心密かに決めていた。
が、あっさり挫折。
そうだ、宛名をシールで打ち出してハガキに貼って準備しておいたらいいんじゃないかな。
字を書くために、宛名を書く時間まで惜しんでるようじゃダメだね。

おばあちゃんに、気持ちだけ届け。
おそらくこのブログを読んでいるおじさん伝手に伝わりますように。
(やっぱりこうして活字に拠ってしまう・・・人は道具に負ける生き物だと思うのです)

# by shiho_kato | 2017-06-08 11:20 | 読書ノート | Comments(0)

学校に行かない&行けない

むむちゃんが体育祭の振替でお休み。
予感していたとおり、(ぷうちゃんは学校に行きたく無い故に)「いつもと違うお腹の痛さ」があるそうだ。

運動会が終わってしまって、水泳の始まる予告の紙(水泳参加の承諾書)が配られ、
下り基調なところへの、むむちゃんのお休みだから。

今日は職場の会議の無い稀なる月曜日。。。
相方の司書さんも出勤する日。。。
安心して休める日。。。




思い切ってふたりともお休み。
アスレチックフィールドつきみ野へ。
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本格的なアスレチック。がっつり遊べる。

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学校ではなく、学童クラブの子どもたちかな。
異年齢の子どもたちの集団がいくつかと、運動会の振替休みと思しき親子連れがちらほら。
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子どもたちが混み合わないところは、私も一緒にチャレンジ。
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たっぷり遊んだ。
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それから二日、ぷうちゃんは今週二度目のお休みをした。

朝から小さな予感があり、大丈夫かな、心配になりながら「よりみちでたくさん梅の実採ってきてね~」とできるだけ明るい声を投げて、後ろ髪引かれる思いで先に家を出た。

駅までの道で担任の先生とすれ違い、呼び止めて少し相談しておこうか迷い、後ろ髪引かれる思いで前に向き直った。
そのときに言い聞かせたんだ。この「予感」「予兆」を感じることができた私を覚えておこう。もし、学校に行けなかったとしたら、それに気づけていた「私」はエライぞと思おうと。


むむちゃんからの電話、小学校からの電話がかかってくるのではないかと、スマホを握り締めての通勤だったけれど、かかってくるはずの時間をクリアしたので、行けたんだね。と、ホッと胸をなでおろしていた。


夕方、そんなことをすっかり忘れて家に帰ると、ぷうちゃんの顔つきがおかしい。
具合悪い?どうしたの?訊ねると、

「・・・あのね、今日ね、学校行かなかった・・・」

やっぱり行かなかったのか。
やっぱり行けなかったのか。
朝はあんなに覚悟していたのに、覚悟を解いたあとの不意打ちだったので、打撃をくらう。

打撃をくらってしまった反動で、
「どうして行けなかったの?どうして行けないって言ってくれなかったの?」
と、口をついて出てしまった。
不毛な問だ。あぁ、瞬発力がうらめしい。


ひと呼吸おいて立て直す。
「ぷうちゃんはきっと発表のことがイヤだったのかなって思ってるけど、それであってるかな?」
「うん」

「そしたら、明日、ママが先生に説明しに学校に行くようにしようか。」
「うん」

「ママだけがお話するのと、ぷうちゃんも一緒にお話するのとどっちがいいかな?」


「・・・ぼくも一緒にいく」



もー、予感してたんだよー、なんか休むんじゃないかなーって。
朝教えてくれたら、朝、一緒に先生のところに行ってイヤなことをお話したのにー。
はやく言ってよーー。

冗談めかして話したら、ホッとした顔をしていた。


よりみちには行ったそうだ。
梅の実をたくさん採ってくると約束したから。
せめても、ぷうちゃんの楽しみを後押しする、最後の一声をかけておいて良かったな、と思う。

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そう言えば、どうして学校からは連絡は無かったんだろう。


・・・

今回のお休みは、先生のまずさにある。

英語の時間に英語の先生に1から20を英語で言える人と促されて、
手をあげていないのに指されたぷうちゃんは、答えるのを拒んだそうだ。

サポートでついていた担任の先生は「今言わないなら、明日から10回連続であてるぞ」と言ったとか。
きっと、軽い気持ちで、英語の先生をフォローする気持ちで、冗談めかして言ったのだろうと思う。

相手が悪い。ぷうちゃんは発表が苦手だ。
役に成りきって読む教科書やセリフならいい。
自分の考えや意見を言うのが苦手だ、ましてや英語は発音をみなに聞かれることにプレッシャーがかかる。
真面目で、ネガティブなところがあるから、10回も連続で発表させられるなんて最悪だ、と頭の中にしっかりインプットされてしまったに違いない。

むむちゃんも発表はキライだ。むむちゃんの場合は苦手なのではなく、キライ。はっきりしている。
私も発表が苦手でキライな子どもだった。
北海道、福岡、千葉とあちこち転校して、声が変、発音が変、と言われることが重なって、名前を言うのも、返事をするのも厭うていたくらいだから。
学校の授業の中での意見とか考えとかいうものは方向付けされているものがほとんどで、それを先読みして見つけることなど大して難しいことではない。それを発するのがダメなのだ。先生によっては、わかっているのに答えないのは、周囲をあるいは教員をバカにしてるからだ、と思われた人も居た。そんな人に、どんな事情も通じようはずがないよな、と、今でも思う。

というようなことを、掘り返しつつ、「「自由の相互承認」のチカラをつけるための公教育」という定義に照らす。

不要だよな。発表の強制。

むむちゃんも授業内で自ら発表するところは見たことがないけれど、適切なところで適切な発言ができる。
私など、あの頃あぁだったのに、今となれば、相手が30人でも50人でも180にでも、マイクを持たされれれば必要な時間それらしいことを話し続けることができる。
必要に迫られれば、使命を感じることであればするんだ。
そのときに引っ張り出してくるのは、人がそうして話しているのを見聞きし、この人の話し方は聞きやすいな、という経験であって、イヤイヤした発表の経験ではない。


そんな話を相方司書さんにしたら、「今のアクティブラーニングの潮流で、発表とかプレゼンとかをする機会が増えることで苦痛が増さなければいいけれど」と。

本当に。

辛抱強くアプローチしていく力が必要な場面もあれば、
相手を魅了するプレゼンテーション力が必要な場面もある。


それを互いに役割分担しあって助け合えるのがアクティブラーニングのいいところだ。
辛抱強い探求力と、訴求力のあるプレゼン力とを、ひとりがすべて身につけなくてはならない、というものでは無いということを、先生方が勘違いしませんように。



我が子のことになると、時間的背景も場面的背景も見えるから、いっそうせまってくるなぁ「学校の教育の力」

# by shiho_kato | 2017-06-07 22:41 | むむちゃんとぷうちゃん | Comments(0)

宮武久佳『正しいコピペのすすめ』(岩波ジュニア新書)

著作権と、肖像権と、知っておきたいなーと思って。
手っ取り早く、勉強会に行こうと思ったけど、日が合わないので、本を読むことにする。
簡単に書かれていると、よりありがたいので、岩波ジュニア新書から。

以下、ひとつだけメモ

学校で教育目的で配布するプリントについて、何部までならコピーしていいのか、との疑問に「いろんな著作権の先生に「相場」を訊ねてみると、小中高のひとクラスの数ではないか、つまり、30ー40人ぐらいじゃないか、という答えが多いです」(P87)とのことだけれど。
 たとえば40人学級4クラスで授業を行うときには、等しく同じ授業をしようとすれば最低でも160部が必要になる。私の通っていた高校は44人10学級だったので、最低440。数の問題ではないのではないのかな・・・。

条文
第三十五条  学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。」



ジュニア新書でやさしくしてくれているので、解説はわかりやすかった。
でも、十分に消化できない部分も残ったので、
福井健策『18歳からの著作権』プリマー新書、『著作権とは何か』集英社新書も再読しよう。
以前読んだのに、内容を覚えていられなかった・・・。
興味が強くないものは、どんどん忘れちゃうから、その都度都度読んでいくしかないよね。




本筋とは関係ないのですが、
部活について「必ずしも全員が参加することが義務づけられていないクラブ活動(部活)は、趣味や親睦の課外活動であって、教育目的とみなされません」(P89)とのこと。ゆえに、部活で用いられる「著作権対象の資料」はコピーして配ったりしちゃいけないそうです。
(PTAの会議や、職員会議や、保護者会も、ダメなんですって。知らなかった)


部活って、教育活動ではないんだ・・・。
文科省の現行の「学習指導要領」では、
生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵かん養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。
教育活動の一環と明記されているけれど、違うのかな。

著作権の条文では、「教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合」とあるので、授業じゃないからダメなのかな、と受け取ることはできるのですが、部活動は教育活動ではない、という書き方はしない方がいいんじゃないかなーと思った。


そこのところが気になって調べてみたら、今言われている「ブラック部活」(*)とか、部活に休日必置とかも、この「学校教育の一環ではあるが、教育課程外」の解釈の揺れ、振り幅に起因しているみたい。

そうか、部活が教育活動であるなら顧問は部活に携わる時間は、正規の勤務時間として給与が保証されるべきだけど、そう位置づいてないから「部活動手当」みたいなので、4時間で日当1200円とか、休日日当3600円とか、よくわからない数字(だって4時間1200円って、時給300円だよー)で働くことになるんだ。


個人的には、教員は勤務時間にして、生徒はいつでも休める活動にするのがいいよね。って思う。
だって、生徒の「自主的、自発的な参加」って謳っているし、「学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう」って指導ということだから教員として勤務してる時間にしか課されないことだもの。




*ブラック部活:生徒たちが激しくしごかれ、健康を害するほどの練習を強いられたり、人格を否定するような暴言を投げかけられたりする部活動の実態を表す言葉。生徒の中には不登校になったり、自殺に追い込まれたりするケースも見られるなど問題が深刻化している。また近年では、生徒たちだけでなく、土日も出勤して部活動の指導や引率に当たるなど、教員の過酷な勤務状況を指してブラック部活と呼ぶようになっている。2015年12月には、公立中学校に勤務する教員6人が「部活問題対策プロジェクト」を結成。オンライン署名サービス「Change.org」で、部活の顧問をするかしないかの選択権を求める署名集めを始めたところ、わずか2カ月で署名が2万2000人を超え、16年8月には2万8222人分の署名を文部科学省に提出した。同省とスポーツ庁は、16年6月、部活動に休養日を設けることなどを盛り込んだ報告書をまとめた。17年度に部活動の実態調査を行い、同年度内に具体的な休養日数を盛り込んだ指針を定めるとしている。(イミダス2017)

# by shiho_kato | 2017-06-06 12:03 | 読書ノート | Comments(0)

椰月美智子『明日の食卓』、池井戸潤『あきらとアキラ』

現実を映し取りながら、その出来事に「著者」なりの解を与えるから
小説は小説として成り立つのだと思う。

高村薫や山崎豊子(や三浦しをんや原田マハ)の小説は、取材して取材して取材して積み上げて組み立て直して行く。
宮部みゆきや池井戸潤の小説は逆に、作って作って作って現実に寄せて行く。
どちらも、現実では触れられない埋められない空白を想像で塗りつぶしていく、その想像の部分が小説として面白味を作り出している。


現実をペラリと写し取るだけの小説は、小説ではない。似ているようで違うんだ。

そのさじ加減が難しいか難しくないかは、私は読み手であり創り手ではないのでわからないのだけれど、
ときどき、間違って、ペラリと写し取ったものをいくつか並べて串で刺して出来上がりにしてしまう小説がある。

今回読んだ『明日の食卓』はそれ。
椰月美智子の小説は、他のものもその傾向がある。
三人の「いしばし ゆう」くんを育てる母の三つの物語、という設定は面白かったのにな。

池井戸潤が同じ名前の少年たちを描いた『あきらとアキラ』は
設定はベタ(零細企業の息子山崎瑛と、御曹司階堂彬のそれぞれの人生と、その重なりで生まれる物語)で、いつもの銀行物語ではあるけれど、十分に面白くって一気に読んだ。
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こんな現実もあるよと、示すための手法として小説を用いることは、手段としてはありだと思うのです。
が、そこに思い切った強い「私」の解釈が入ってこないと、面白くない。

それならば、ルポで十分と思う。


物語としての面白さを感じることができず、子どもを育てながら感じる生々しい苦しさやしんどさばかりをポンと見せられて終わってしまった。

このところ、批判相次ぐ「ムーニー」のCMみたいな、見終わったあとの封印していた不快感だけが解き放たれて終わる感じ。

伝えたいメッセージの強さが、物語に乗ってきていないんだな。

ため息をついてページを閉じる。ちょっと残念。


# by shiho_kato | 2017-06-05 11:20 | 読書ノート | Comments(0)

畑野智美『家と庭』『タイムマシンで行けない明日』

畑野智美を二作。

下北沢を舞台にした『家と庭』。

母と、姉二人妹一人に囲まれた「ぼく」の情けない感じがいい。
ゆらりゆらりガツガツせずに「そこに居ていい」「場のゆりかご感」が、
下北沢の印象と合っている。
(下北沢のことをたいして知るわけではありませんが)


『タイムマシンで行けない明日』は、畑野智美の作品の中では、群を抜いていい。
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取り返しのつかない出来事に遭遇し、取り返すために戻った時間から、
戻ってくることができなくなる。

取り返しのつかない「彼女の死」よりも、
戻ることのできないまま「僕の死」後の世界の方で生き続ける僕。

自らの意思で選んだのではなく、ただ流されてしまうだけの男の子ばかり描くなぁ。
とは思うものの、畑野は女の子よりも、男の子の方が、幾分よく書ける気がする。


そして、地に足の着いた現実を描こうとするよりも、『タイムマシン・・・』の浮遊する感じの設定にのっかって書く方がいい。(現実描写の力が弱くて、つくりものの上で演技してる感が出てしまうから)

その路線で進めばいいのだ。

# by shiho_kato | 2017-06-01 18:08 | 読書ノート | Comments(0)