むむちゃんの散歩道

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文学を生きる知恵としてとらえるために

文学は、時に医療科学よりも命を救うに足る力を持つ、
そう信じて疑わないのだけれど、
それを証明することはとても難しい。

そして、答を明快にだしてくれる言葉には
ぽつりぽつりとしか出会ったことがない。


そんな時にまた、内田樹は下記のようなことを書くわけで。

まいってしまう。
まよってしまう。

私はどこにいけばいいのか。
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内田樹研究室ブログ「特殊な能力について」
http://blog.tatsuru.com/2011/01/20_1253.php

文系の、それも文学研究における「なまもの」とは何であろうか。
私はそれは畢竟するところ「人間の知性」だと思う。
文学研究の対象は人間の知性である。
人間はどのように推論するのか、どのように想像するのか、どのように欲望するの
か、どのように臆断に囚われるのか・・・それを研究するのが人文科学の仕事ではな
いかと私は思うのである。
研究の「素材」はなによりもまず自分自身である。
自分自身の知性の好不調や、妄想や欲望の亢進と停滞、想像の逸脱、推論の逸
脱・・・それはどのような法則に基づいて生起し、どのように構造化されているか。
知性によって現に活動している知性そのものを遡及的に解明する。
この不可能なアクロバシーを託されていることこそが人文科学の栄光ではないのであ
ろうか。
昨日の講演のあとの質疑応答では「文学は大学教育に必要なのでしょうか?」という
質問があった(質問したのは経済学部の学生。質問には「文学なんか不要でしょ?」
というニュアンスが込められていた)。
とてもよい質問だと私は思った。
「文学はなんのためにあるのか?」
これは文学研究者がまっさきに考えなければならない問いである。
もちろん「正解」があるわけではない。
けれども、文学研究をする人間であれば、志したときから、死ぬまで考え続けなけれ
ばならない問いである。
「文学はいかにして可能か?」
思えば、私はモーリス・ブランショのこのエッセイを精読するところから文学研究を
始めたのだった。
「文学はいかにして可能か?」
この問いをつねに胸元に突き付けられた匕首のように受け止めること。
それが文学研究者のあるいは唯一の条件ではないのであろうか。
by shiho_kato | 2011-01-21 12:11 | 読書ノート | Comments(0)