むむちゃんの散歩道

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角田光代『坂の途中の家』

『八日目の蝉』に類する、
角田光代の持ち味を使いつくした迫力ある一冊だった。
角田光代『坂の途中の家』_d0134102_18200592.jpeg
読み始めたら、読み終わるまで、絡めとられる。

裁判員裁判のお話かと思いきや、
児童虐待の話と思いきや、
どちらでもない。

支配‐被支配の関係性の小説だった。

無意識に行われる支配。
無意識だからこそ、実感のないままに日常の関係性の中で
主と従がいつの間にか定まってしまう。


被支配の側は、
ちいさな不快、不愉快が、
やがてちいさな不安、怯えとなり、おびえる自らをカムフラージュするために
(「それ」に脅かされる自分を認めてしまうわけにはいかない?)
無感覚となり、
「それ以上」にはならぬように、自らを閉じ込めた状態におさまろうとしていく。


こうして、角田に、しっかりと暴かれてしまうと、
見えない「支配‐被支配」を、見えないからこそするすると促進する会話法を用いる人はとても多い。
体感として、私の知る3割くらいの人はそうなんじゃないか。と危惧する。
特別な場面ではなく、もっと日常にごろごろとたくさんちりばめられている気がする。

「何が?」は明確にはならなくとも、何か嫌だな、と感じられるときには、
あまりお近づきにならないように、敬して遠ざけるようにしてきた。
その「何が」の正体の8割は、これだったんじゃないか。


そして、ともすると私の中にも、これを用いようとする場面がときどき訪れることに気づく。
何か、やだな、今日の私、やだな、感じ悪いな、と思いあたるときに、
半分くらいは、これだったんじゃないだろうか。
思い当たれずに、使ってしまっていた時があったんじゃないか、と暗い気持ちになる。
気づけた今、もっと感度高く、自らのうちから排さなくてはならない、と思う。



**********

里沙子をとりまく家族たちのふるまいいちいちがよくあり過ぎるくらいあることで、
かつての私のことを書かれているような気持ちになる。
そこへ見出した里沙子の解に、
「あぁ、そうか、つまりはそういうことだったのか。」

ストンと落ちる。

小説の終わりがスタートになる里沙子たちの姿に頁を閉じ終えて、
私は、かろうじて脱却できて良かった。
そこに身をなじませる術も、自身を押し殺す術も知らなくて、本当に良かった。
術を知らなくとも、あやうく、ちっぽけな生きる甲斐もない私に貶めてしまいかけていた。

脱却して、なお、怯えによる被支配が続いていること、
そして、ただ、日常に入り込む場がきわめて小さく小さくなっているがために、
なんとかかんとか、やり過ごせていることにも、気が付く。



むむちゃんやぷうちゃんが、これに絡めとられないためにはどうしたらいいんだろう。
その手段を誰にも使わない、誰にも使われないようにしなくては。


自分を大事にされる感覚を、しっかりと体験して、
自分を大事にされない不快感をキャッチできるように。

他者も自分も大事にされているのが心地よく、
他者か自分かいずれの一方でも大事にされないのはとても心地が悪いと感じられる感性を持てるように。



多くの人が、この小説を一度でいいから読んでおいて欲しいと願う。
日常の人との関係において、ぜひとも。
パートナー(恋人でも結婚相手でもいい)を得る前には、絶対に。
私には伝えきれないことを、しっかりと伝えてくれる。

by shiho_kato | 2016-02-15 18:00 | 読書ノート