あたたかくて面白かったので、5冊せっせと読んでしまった。
(『猫便』『猫弁と透明人間』『猫弁と指輪物語』『猫弁と少女探偵』『猫弁と魔女裁判』、魔女裁判を読んだら、以前にも読んだことがあったことを思い出した。忘れるって素晴らしい、二度楽しめるということだ)
正しくあろうとすることは、とても難しく、
最終巻の後書きで筆者が言っているように、
「自分でぜんぶ背負うのがいい」
他者に求め始めたら、自他ともに崩壊するしかなくなる。
そして、正しくだけある人と接するのは、疲れることだ。
鈍感力の権化でもなければ、正しくばかりいるのは難しいことだから。
それでも、この小説を読んでいて清々しいのは、弁護士であり「正義」に近いところの仕事をしている人が、「正しさ」を実直に求めるがために不器用だからだ。
「正義」と、「正しくあること」には乖離があることをぜひ、知っていて欲しいと思う。
私自身は、正しく真っ直ぐになんか居られない。
自分の内なる声には、それなりに向き合って、どう処理し、外にどうあらわすかは、ちょいと考えよう。
そのくらいの正直さを持ち合わせていればいいや、って思う。
猫弁シリーズが面白かったので、大山淳子を続けて読む。
『原之内菊子の憂鬱なインタビュー』
「原之内菊子」は「腹の内、聞く子」の意だ。
聞き女として生まれてしまった菊子の前に立つと、人は話したくなる。
お腹の中に貯めていたことを話したくなる。
お腹の中に貯めていない人は話したくならない。
「話しながら、取り散らかったものを引き出しの中に仕舞う作業をしている。」
うんうんそうそう、うなづきながら読んだ。
菊子の祖母が言う、「話したくなるのは、菊子が相手を信じているからだ。」と。
話し出す側が菊子を信じるのではなく、まず聞く菊子が相手を信じていることが、相手に伝わるから話し出す。
さらっと書かれているけれど、とっても大事なことを言っている。
話してもらえる人になるために、信頼されるために、どうすればいいのか、ではない。
相手を信じる私になるために、どうすればいいのか。
そう転換したとたんに、「自分ごと」になる。
ということは、転換する前は、「相手ごと」だったということだ。