むむちゃんの散歩道

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カテゴリ:私ノート( 576 )

教育実習生の教育実習見学

今年はじめて、教育実習生の支援を試みた。
支援は言い過ぎか。

実習生の控室に行って、本が借りられることやデータベースが使えることをお知らせ。
図書館を案内したりした。

けれど、それは全然支援じゃなかった。
支援じゃなかったけれど、そこで顔を合わせておしゃべりをして、少し親しくなって、どんな授業をする予定になっているかを聞いて、全員の授業をひとつずつ見学させれもらって、参考になりそうな資料を箱に入れて控室に運び「出前図書館」を置いた。

授業を組み立てるときに、こういうものをこう活かしてくれたら、少し助けになるかなー。
生徒の特性としては、こういうアプローチをすると、授業がしやすいかなー。
事前にわかっていたら、こういう資料も用意してあげられたかもしれないなー。

そういう気づきが毎日あって、充実した3週間を過ごさせてもらった。


私の方はそうだったけれど、きっと実習生にとっては、実質的にお役に立てたのは、
教室の場所案内、先生の居場所探し、工作道具の貸し出し、資材の提供、そういうことの方だったろう。

それでいい。
そこができればとってもOKだ。


学校の中の、教えてくれる人ではなくって、助けてくれる人、生徒にとっても先生にとっても、そっちの位置づけの方が、私は好きだ。
と、いうことに、あらためて気づくことができた。

もう一歩踏み込んで、「私は好き」なのか、「学校司書はそういう立ち位置にあるといい」なのか、判別がつかないので、今後、ほかの司書さんたちがどういう立ち方をしているのか、観察してみようと思う。


****

教育実習生の専攻は体育科が多く、体育の実技の授業以外に保健の授業を担当した。
テーマは性について。
教育実習生が思春期の男子生徒に行う授業としてはハードル高いなー・・・と思った。


その中で、ある実習生は、
思春期の身体的な変化のお話にとどまらず、みながどう生まれてきたのか、妊娠の話、不妊の話(年齢や割合)、流産の話(発生の頻度等)を交えて、簡単には生まれない命だという話をした。
加えて、マタニティハラスメントや、マタニティブルーなどの、みなを胎内に宿してる時に母親が直面したであろう危機の話もしてくれた。
出産にかかる費用、子どもを育てるのにかかる費用の話をした。

教科書の中のことじゃなくって、自分が生まれるために通ってきた道のり、自分が生まれたときにかけられた時間やお金、ここまで育つのにかかった費用、これからかかるであろう費用、親が自分にどんなことをしてくれているのか、その覚悟のほどについて思いを馳せる時間になっていた。

お見事。


関心しきり。こういう授業を、むむちゃんやぷうちゃんも受けることができたらいいのに。

この組み立てだったら、性のことを学びながら、デートDVのことや、自尊感情のことや、セクハラのこともあわせて、組み入れることができる。


伝えるのが難しい性の問題は、我が子たちをかえりみても、どう触れていいのか、どう話せばいいのか、戸惑うばかりだけれど、正しい知識を知っているほうが絶対にいいのは確かだ。
アプローチの仕方を考えれば話せるかもしれない、と思わせてくれる授業をありがとうと言いたい。


図書館の蔵書にあるもの、公共図書館からかき集めたもの。
これらに、妊娠とか出産とか子育てに関するものも加えよう。
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by shiho_kato | 2018-06-15 18:02 | 私ノート | Comments(0)

選ぶなら、カナダの教育

『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』を読んでの特記。

中国、シンガポール、フィンランド、カナダ、日本の教育を紹介していた本書。
5つの国の教育の実際、その在り方、それを支える考え方を知って、断然心惹かれたのはカナダの教育だった。

理由は三つ。

・カナダの「絶対評価」を支持するため。
「「試験」とは、他との比較による偏差値ではなく、「子どもたちが、社会が必要だと定めた知識やスキルをきちんと習得したかどうか、またはどの程度習得したかを証明するためのもの」」(p244)という考え方をを支持する。
「成績評価を進路の振り分けに使うのではなく、より良い授業方法や支援の必要な生徒への対応について話し合うのに使う」(p244)考え方を支持する。


・カナダの子どもの「能力」についての考え方を支持するため。
「『君は頭が悪いから、これからもできるようにはならない』ではなく『君は今はまだできていないけれど、それは君に能力がないせいじゃない、まだ準備ができてないだけなんだ』」(p245)という考え方を支持する。
「知能は固定したものではなく、発達するものだということ、子どもによってできるようになる年齢が違うと認識したうえで、才能や能力は人によってい伸びる度合いが違う」(p245)という考え方を支持する。
それゆえ、15歳になるまでは能力別に振り分けることをしないという考え方を支持する。


・その二つの考え方を前提とした上で、高校に入るまで能力別に子どもを分けない考え方を支持する。
「13歳までにそれを分けるのは『君は頭が悪いから、これからもできるようにはならない』と言っていることでそれは虐待になる」という考え方を支持する。
あわせて、仮に、理解度の異なる子どもを分けるときには、「トップクラスの子を別にする」やり方を支持する。下の子、普通の子が、トップクラスの子がいなくなったことで気後れを感じなくなるやり方を支持する。


****

私は学力競争は不要だと思っている。

身に着けるべき学力が、どの程度身についているかを計る学力試験はあっていい。
(この価値観は社会のあり方によって異なるのであろうが)
でも、他者とそれを競う必要は無い。
クイズ王選手権では無いのだから。

偏差値で格付けする教育の在り方って、変なんだな。あらためて思う。

学力を元手にして、「何をする」ようになっていくのかが問題だ。
その、元手になる学力が等しく身につくように組み立てるのが学校教育の第一の役目だろう。

「何をする」かの目的を見失って、元手になる学力だけで競わせるのは間違っているし
「何をする」かを先行させて、元手になる学力を未到達の状態で輪切りにしていくのも間違っている。


子どもたちが自ら立つ段階に達し、「何」かを選び取るときに、それに足りるだけの力を備えさせて送り出す学校教育の在り方を望む。

by shiho_kato | 2018-06-14 18:49 | 私ノート | Comments(0)

お茶大図書館見学会

お仲間の学校司書さんたちと、この四月にリニューアルオープンしたお茶大の図書館見学をした。


お茶大図書館については、何度も書いている。
大学に入学してはじめて図書館に足を運んだ時に、よだれがこぼれそうになった。
ここにある本はすべて、読んでいい本なんだ、ということが嬉しくて。

日々通いつめて、二年目から、カウンターのアルバイトをはじめた。平日の夜二回に土曜日終日。
一週間の時間上限が決まっていたから、その三回だけだっだけど、月曜の茶道部の日以外は毎日でも良かったんだ。

同じカウンターアルバイトの先輩は、国文学科の三木ゼミの先輩だった。
早々に誘われて、三木ゼミに入り、そのまま博士課程までを過ごすことになった。
修士2年のときに、夏期講習で司書の資格を取った。経歴ありの職歴書はお茶大図書館で書いていただいた。
司書になりたかったわけではない。研究者になりたかったのだから。
それでも、より本に近い人(言うなれば、本に愛される人)になれるのであれば、司書という資格はひとつもらっておいてもいいなぁというくらいの気持ちだった。


あれから20年近い歳月が流れ、こうしてここに立つ。
周りには、ホンモノの司書さんたちが居て、一緒に働く同僚となっているんだ。
なんとも不思議な縁である。


****
お茶大図書館はステキにリニューアルされていて、かつての↑の頃の面影は無い。
面影が無くて寂しいかというと、ひとかけらも寂しくない。
そして、今のこの図書館であっても、かつての図書館であっても、私が入り浸っていたであろうことに変わりはないだろうと思った。

お茶大図書館でお世話になった、はじめは岩波新書のコーナーだった。
当時、千葉の外房から遠距離通学していたから、通学時間のお供は新書だった。
往復4時間あれば、2、3冊は読める。片っ端から読んだ。このときの貯えに生かされていてると思うことがしばしばある。
岩波新書は難解なものも多々混じっていたから、苦戦して読んだけれど理解が及ばなかったものもあった。
今、新書は当時よりもずっと種類が多く、軽いのから重いのまで、現在いまそこで起きていることの話から古くからずっと積み上げてきた話まで、幅広く展開している。
今だったら、岩波新書に限定せずに、もっと広く多く読むことができるだろう。
その点では、今の学生がうらやましい。

また、図書館ではPCも貸し出ししていた。
奇しくもこうしてブログなどを書いているけれど、ここに書き留めることで、学んだことの保存に変えている。それもこれも、PCのおかげだ。
もしあの当時、今のように筆記具代わりにパソコンを使える環境があったなら、読みながら書き留め、貯めていくという作業ができたのに。
残念ながら、垂れ流すように読み流して、書名・著者名だけの記録しか残していない。
その書き留めたノートも、果たしてどこにあるのやら。

カウンターでレファレンス業務に携わっていたのは、国文学科(現在は日本文学科というのだろうか)の3、4歳下の後輩だった。
懐かしい先生の名前に、学部のころの思い出がわーっと沸いてくる。

私はこの学校も、この図書館も、大好きだった。

****

大学図書館を見学した後に、お茶中の図書館を見せていただき、学食でお昼を食べて、筑附中の図書館に足を運んだ。

お茶中の図書館は、相変わらず生き生きとしていて、空間が生きていた。本が生きていた。
けして広くは無いけれど、隅々まで呼吸している新鮮さがある。


学食では、じっくりお話したかった中山さんを独占するようにして、あれこれとうかがう。
「図書館中心主義」とご自身が自覚し宣言していることを知り、ほっとする。
私は、図書館が大好きではあるけれど「図書館中心主義」ではない。
だから、受けとめ方やアプローチに相違があっていいのだ。
そして、だから、私は司書らしい司書にはなれなくて当然なのだ。

筑附中の図書館は、ちょうどひと月前に訪れたばかり。
踏み入れた第一印象は「明るくなった」こと。
最上段まで積み上げられていた本を取り除いて、最上段、二段目までを明けたことで明かりが下まで届くようになったこと。
乱雑な並びだったものが、分類に沿って整然と並べられ、分類の見出しが見えるように据えられたこと。
この二点で、すっきりした棚になっていた。
やっていることはシンプルなのに、空間に流れる空気が大きく変容していた。
そうか、これが「プロの仕事」なんだ。

今のままであるなら、司書の仕事はAIに早々に引き渡していいんじゃないか、と思ったばかりだけれど、こうした仕事を見ると、そう切って捨てるには早いことが身に染みてわかる。

お茶中と筑附中とを見て、少なくとも学校司書は空間コーディネーターの役割が大きいことがわかる。

これから早々に決めたり動かなくてはならないことを抱えてのひとり職場は、
その決断をひとりでしなくてはならない。
何を優先させ、何を選び、何を手放すか、迷いながら手探りで進めている最中。
話し始めたら、止まらないのは当然だ。

短時間で引き上げるつもりでいたけれど、すっかり長居してしまった。
そして、こういうときのために、附属間の連絡を厚くしてきたのだもの。
それも、実っている、と思っていいだろうか。



by shiho_kato | 2018-06-13 18:47 | 私ノート | Comments(0)

「なくなる職業」11番目「図書館司書の補助員」

先のAI本を読んでの追記。


松尾豊の『人工知能は人間を超えるか』で紹介されている、オクスフォード大学の研究チームが予測した「10年から20年後に残る仕事、なくなる仕事」の「なくなる職業」の方の11番目に「図書館司書の補助員」が入っている。
図書館司書そのものではないけれど、補助員的仕事をする図書館司書は不要になるということだ。

実感がある。

本の受け入れとか登録の作業は、きっと人を介さずにできる日が来る。
情報を探す能力は、おそらくAIの方が優れている。
忘れたり、見落としたり、知らなかったり、人為では不足する欠ける部分がどうしたって生じてくるから。


選書は司書の専門性というけれど、生徒が借りる本に限らず開く本使う本まで情報を収集できれば(たとえば、書架から引き抜かれた本を情報として吸い上げることができるとか)、アマゾンのレコメンドシステムのように、この学校の図書館で必要とされる内容の本をデータ的にチョイスすることができるプログラムは、組めるだろう。
「経験に依る勘」「現場の勘」よりも精度のいいチョイスがなされるかもしれない。

そして「読む自由」、プライバシーの問題を考えるときに、本を勧めることにためらいがある。
その「人」との関係性によって、その本を手に取る取らないの自由が減じている気がして。

公共図書館ですら、毎週のように通っていると顔見知りになる。
今日はこれを借りるのか、と思われるのではないか、という気持ちと時に戦う。
ましてや、学校において、生徒と学校司書であれば、なお、その「戦い」は頻繁に起こりうるだろう。

率直に言って、自由に本を選ぶ際に相談する相手は、見えるところに居る「人」では無い方がいい。


だとしたら、司書はなんのどんなことをすることを求められる仕事となるのだろう。

・直接対面しない場から、本を勧めるのであればどうだろう?
・欲しいものを調べて探し出すことが不得手であればどうだろう?
・限られた空間、資金、時間のなかで、蔵書構成を考えるときの選書は、利用傾向を分析したレコメンドシステムによる選書とは異なるラインナップになるだろうか?
・図書館空間を作ることを考えるとどうだろう?


どれもこれもじっくり考えた方がいい問題だ。
私自身、最近のインプットではずるずると役立たずな人間へと傾いていっている気がしている。
図書館における有用な能力を、このところ育てられていないのではないかと感じている。
そもそも司書としての貯えを持たぬ頃の方が、武器があったように思えていたことそのものが錯覚なのかもしれないけれど。

目下の自分への宿題で、簡単に整理できそうにない。
でも、きっと、重要な問題だ。

おそらく、「司書って何する人なの?」という問いかけへの答えは、この10年で変わる。
変わっている最中にある。

そしてその変化は、私はどんな「司書」になっていきたいのか、そもそも「司書」になっていきたいのかどうか、と一緒に考える問題だ。

by shiho_kato | 2018-06-12 16:54 | 私ノート | Comments(0)

皆保育の主張

教育本をまとめて読み漁っての結論。
就学時前の子どもたちは、みな保育園に入園すべし。

これまでも、何度も何度も主張してきた。
福祉的にも教育的にも、学べば学ぶほど、知れば知るほど、子どもにとってのベストだ。

*-*-*-*-*-*-*-*

目黒の5歳の女の子の事件。
その親や児童相談所の対応に対する怒りや憤りは、無駄なエネルギーを浪費するだけだ。
親に対するどんなサポートが必要なのか、という観点に立つのはやめた。

そんな観点に立ってあーだこーだしているうちに、次々と子どもが死んでいってしまうから。

命を落とすという死、だけじゃなくって、心を砕かれるという死や、能力を頭打ちにされるという死や、希望や夢を抱けなくなるという死も全部ひっくるめて。
急がなくっちゃ、子どもは大人になっちゃうんだ。

今すぐにでも取り掛かるべきは、就学前の子どもという子どもは必要の有無によらず、すべて保育園(でも幼稚園でもいい)に入れる制度の実現だ。

*-*-*-*-*-*-*-

教育を統計から図った中澤渉(『日本の公教育』中公新書)も、PISAの成績の良い国世界5か国の教育を見て回ったルーシー・クレハン(『日本の15歳はなぜ学力が高いのか』)の報告に照らしても、子どもは生まれた時に近いほど差異がなく、育つうちに違っていく。
個性という意味ではない。格差という意味。
学力、知力、自尊心、好奇心、そういったものが、育つ環境の異なりによって、格差が拡大する。

中澤がまとめた報告の中から一説を引く。
「生まれたばかりの子どもは無垢な存在だが、それでも何らかの個性や性格を生まれ持っている。したがって、全く同じプログラムを同時に提供しても、同じ形で習得するとは限らない。ただ一般的に、幼少期の能力の個人差は小さい。だから、人格形成に教育が及ぼす影響は、幼少期ほど大きくなるだろう。
 年齢が増せば、人格がすでに形成されている部分も多く、その人格や能力を変えるのは難しくなる。だから、教育によって社会的格差を縮小しようとするならば、早い段階で不利な環境下にある子どもに対し、何らかのサポートを行う方が合理的なはずだ。」


私は「不利な環境下にある子ども」のみを取り出して、何らかのサポートを行うのではなく、あまねく子どもたちすべてに、最低限のサポートを行えば良いという考えだ。

そこに上乗せしたい家庭は、いくらでもそうすればいい。


*-*-*-*-*-*-*-*-

辻村深月が書いてくれたから、私の中で吹っ切れた。
「私は満を持して、みなさんに言いたいことがあります。年齢にかぎらず『くだらない人はいます』と」


くだらない親はくだらない。
ろくでもない親はろくでもない。

くだらなく育ってしまった、ろくでもなく育ってしまった事情を、
子どもが引き受ける必要は無いのです。
その事情に寄り添おうとすべきは、子どもじゃ無い。


そして、どんなオトナも自分がどんな親になれるのか、子どもが生まれて「親」と呼ばれる立場になってみたって、にわかにはわからない。子どもを目の前にして、何もかもがぶっつけ本番で、必死に学びながら「親になっていく」。

その親になり切れないオトナのもとにいる子どもたちを、
ちっとは親っぽくふるまえるようになるまでの時間、引き受ける場所が必要なんです。

すべての親たちにとって。
すべての子どもたちにとって。



子どもたちがある程度たくましく、困ったときに困ったと言えるくらいに育ち、
親がある程度親としての覚悟ができるくらいに育つ。
その時間(稼ぎ)が必要なんだ。

その0歳から6歳くらいの時間は、人間の人生の中で、成長曲線がいちばん伸びる時期。
そこを子どもの成長と発達のスペシャリスト集団に、安心しておまかせできる場所が必要なんだ。


平成28年度、虐待(相談対応)件数は12万件を超えた(122,575件)。
0歳から6歳までが45.1%を占める(55,271件)。
実母・実父からの虐待は87.4%だ。

皆保育によって、この55,271人の子どもが救える。

平成27年度、虐待死した子どもは84人。
手をかけたのは家人(実母・実父・継母・継父)だ。
せめても、家の外で、子どもが大人と直接(親を介さずに)つながっていれば、ひろえる命だ。



蛇足ながら付け加えずにおれないので付け加える。
保育士も幼稚園教諭も小学校教員も、小さな命を引き受けるスペシャリストとして、
リスペクトされるべき職業であり、医師・看護師と同等の待遇を用意されねばならない。
そして、それに見合うだけの高い専門性を持たねばならない。

by shiho_kato | 2018-06-11 22:57 | 私ノート | Comments(0)

自動運転大歓迎

自動運転、大歓迎である。

高齢者の方々の運転も、自信過剰なドライバーたちの運転も、
スピード狂の大バカ者の運転も、睡眠不足・休息不足のお疲れバスドライバーの運転も、不要だ。
すべて自動運転にして。

ついでに、すべての車にスピード制御装置が付けてください。
信号とか、速度標識と、呼応して、決められた速度に強制されてしまうようにしてほしい。


このところ、AI関連の本をどどっと一遍に読んでいて、
人間よりも、AIのプログラミング制御の方が、まだ信頼できることが多々ある。
信頼できることの割合が、どんどん拡大しつつある。


たとえば、昨今のちまたの、お偉方のもりかけ問題をはじめとするバカげたあれこれ。
公文書をいっくら改ざんしても、法的には問題無いというような判断しかできない法律屋さん(検察)とか、結託すれば法律無視なんかこわく無い人たちが牛耳る社会において、法律で何をか律することができるなんて、到底信じがたい。
人がすることなど信じがたいから、記録はAI、その真偽判定もAIにしていただきたいし(「記憶」の主張の当てにならなさ(いい加減であると同時に虚偽である))、AIが違法ではないと判定するのであれば、信じようと思えるだろうなー、と思うのである。




シンギュラリティ、来るなら来い。
世界はその方が平和で公平に違いない。

※「シンギュラリティ,技術的特異点[⇒コンピュータの知能が発達して人間の知能を追い越す時点をいう未来学の用語.Ray Kurzweil は2045年を予想している]
"singularity", プログレッシブ ビジネス英語辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-06-12)






by shiho_kato | 2018-06-05 13:28 | 私ノート | Comments(0)

梅を採る

事務のHさんと、Oさんと、私と。

3人で梅を採る。
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Hさん:脚立をおさえる。
Oさん:梅の実をカゴで受ける。
私:脚立にのぼり、梅をもぐ。
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低い脚立では物足りず、高い脚立に変えた。

あっち、こっち、そっちにも!
声を掛け合いながら、きゃーきゃー、わーわー言いながら。
楽しい楽しい梅採り。

本日の収穫13,4kgなり。
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私たちは、同僚であるだけでなく、チームだ。
いっしょに、ひとつの作業をすると、チームになれる。

by shiho_kato | 2018-05-25 18:50 | 私ノート | Comments(0)

書架の隙間に

生徒たちが校外学習の今週。
残る学年は秋の文化祭に向けた準備に力を入れる日。

それを目指してか、卒業生たちがチラホラ校内に姿を現す。

「卒業してみると、意外と数学の本、いいのがあったんだよな」
司書室で仕事をしながら、そんな言葉を耳が拾う。
ふわふわとあたたかな気持ちになる。


しばらくして静まり返った館内に本を戻して歩こうとすると、
4類の書架の隙間の本を読む人影。
卒業生たちが、それぞれに本をひらき、それぞれの恰好で床に座り込んでいた。
静かすぎて居ることに気づかないくらい、読むふけっていたんだ。



彼らが、懐かしい気持ちなのか、新たな発見をした気持ちなのか、かつて読みそびれたことを悔やむ気持ちなのか。
ひとっかけらも片鱗をつかまえることはできないけれど、
この空間に一体となって、おそらくは寛いでそこに居ることを、心から歓迎したいと思った。


静寂を破らないように、彼らの空気を乱してしまわないように、そっとそっと遠ざかる。

来たいときには、いつでもおいで。
言葉にはしないけれど、ありったけの思いをこめて願う。


by shiho_kato | 2018-05-24 17:38 | 私ノート | Comments(0)

のんびり過ごせば旧友と会う@プーシキン美術館展-旅するフランス風景画

午前中はかるた。
練習後ゆっくりすることができたので、久々にA先生やよーこさんとのおしゃべりを楽しむことができた。

A先生のお話。

40代になられてからかるたを始められた。
かるたの読みがとても好きで、好きで好きで夢中になってやってA級選手にもなり、読手にもなることができ、長いこと読み続けてきた。
若いころは学校の先生になりたくて、学校ではなく個人レッスンの先生にはなることができたけれど、
長い時を経て、中学生を前にかるたの模範演技をすることができたりして、「学校の先生」になることができた。
夢が叶ったのよ。好きで好きでやっていればね、いいのよ。ちゃんと夢はかなうから。


・・・どこかで聞いたような・・・。

ほらね。
私だけじゃない。
私の周りには、そういう人生経験をした人が幾人もいる。
大先輩にも、ほら。

胸がポッとあたたかくなる。

人生観が同じように生きている人のもとへ引き寄せられる。
それは必然なんだ。
年齢関係なく、好きなものを好きと言い、好きなものを身の周りに集めて生きることに揺るぎが無い。
むしろ、そういう風にしか生きられない、と言ったほうがいいのかもしれない。


このところ先生のサポートをされているSさんは、かるたを見るのが好きで、
自分はそれほどやらなくていいと思っていたけれど、なんの因果かやる羽目になっちゃったけど、
自分が札を取るよりもも、上手にできるようになるのを教えたり手伝ったりするのが好きなのだそう。


この方たちと、マインドは一緒。
私はちっとも大会に出られないし、現状維持を辛うじてしながらも、
まったくこの2年昇級できずにいるけれど引け目を感じることは少しも無い。

人生の大大大先輩のA先生とSさんのお話を聞いて、肩の力がすとーんと抜けた。


私は、かるたもそうだけれど、かるた以外でも、その経験をたっぷりとしているから、
かるたを好きになった子どもたちには、「好き」に貪欲であり続けるお手伝いがしたいんだ。

私も強くなりたくて、美しく正しいかるたを取る人になりたくて、それを求め続けつつ、
子どもたちと、好きなことをする楽しさを共にしたいと思う。


きっと、そのうち、私にもぐぐぐぃっと集中してめっちゃ練習できるようになる時期が訪れて、
そうなれば必ずぐぐぐぃっと強くなれるはず。
だから地力をつけつつ、焦らずその日を待とう。
私の好きは筋金入りで、きっと、一生モノだから。急ぐ必要はない。



気まぐれな子どもたちの「好き」がいま、ここ(かるた)に漂ってきている間を、
存分に楽しいと感じて過ごせるお手伝いを、これからも続けようと改めて思う。

先生に独立してはどうかと言われたけれど、きっぱりと断った。


強くするためではない「かるた会」に、大会に出るためではない「かるた会」に、
私自身の練習時間も大幅に減らしながらする「かるた会」に、
いったいどんな意味があるのかと、思わないでは無かったけれど、
私の主催するかるた会は、強さと大会での勝利を求めるものでは無いと、あらためて腹が据わってスッキリした。


もしも、今、どんどんと昇級している中学生たちが、
これからも競技かるたを続けて、しっかりと実力やかるたの品格も伴った大人になって、
かつての自分たちのように、子どもたちを教えたくなって、強くしたくなって、大会に出したくなって、
そういう日が来たら、そう変わればいい。



***


心がフクフクとあたたかい気持ちになったから、今日はゆったり過ごすことにする。

かるたをして(9時~12時半)、
午後は東京都美術館のプーシキン美術展に行き(13時半~14時半)、
一度自宅に戻り(14時半~15時半)、
卓球に行き(16時~18時)、
卓球を終えたらむむちゃんのお迎え(18時半~21時)

そんな、フルにタイトな一日を想定していたけれど、
心が豊かになったので、ゆるるとゆるめることにした。


夕方の卓球はパスして、むむちゃんのお迎えまでの時間を東京都美術館で過ごすことにする。
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フランスの風景画にも、プーシキン美術館にも、ロシアにも、何の縁も無い。
美術展のいいところは、何の知識も無くっても、好きな絵をそこで見つけ、面白いエピソードとそこで出会い、名前だけだった画家が生きた人として立ち上がってくる経験ができること。
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今回、面白かったのはブランコにのる女性の絵を描いた
ジャック・ド・ラジューの「狩猟後の休息」
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ドイツ村にある木々にロープを結んだブランコに、ドレス姿の女性がのり、
そのブランコを正装の紳士がロープで引いている。揺らすのを手伝っているのかな。
当時(18世紀)の貴族たちも、今のわが子たちと面白がる遊びは変わらない。


アンリ・ルソーの「馬を襲うジャガー」
は、どこからどう見ても、馬がジャガーを襲っているようにしか見えなかった。
絵本の挿絵のような絵は親しみが持てる。

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今回の特別展のメインはモネの「草上の昼食」のよう。
丁寧な解説によると、もともとの習作では、
左から二番目の女性のドレスの模様や、
そのふたりとなりの座ってこちらに顔を向けている男性が違う人だったらしい。
たしかに習作では髭の男の人だった。
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うっとりするような涼しげな木陰を描いているけれど、
みな窮屈そうに見えるのは服装のせいなのかしら。


そろそろ一回りというところで、見知った顔とすれ違う。

「Hさん!」
ブランク20年ほどの時間を、ひとっとびに越えて、呼び名が勝手に口から飛び出した。
私もびっくりしたけれど、Hさんも驚かれた。
こちらが恐縮するほど感激されて、観終えたあとにおしゃべり。
ちょっとのつもりが1時間以上。

Hさんとは、学生時代に何度か展覧会にご一緒したことがある。
そう思えば、こういった場所でお会いすることは突拍子も無いことではないのだけれど。
に、しても20年ぶりなのだもの。

変わらぬとびぬけた個性をそのまま落ち着きにくるんで、ステキな「変わらなさ」
お会いできたことを嬉しいな、と思える再会でした。


のんびりとした時間を過ごすことをチョイスして、20年の時間を飛びこえた。


by shiho_kato | 2018-05-12 20:18 | 私ノート | Comments(0)

ブックトーク

果たして、今後ブックトークをする機会があるかわからないのですが。
未来の自分のための覚えとして書いておこうと思う。


今回のブックトークは、これから毎回の授業に生徒さんたちが順繰りにブックトークをやっていくことになるその前振りとして。


ブックトークの今年の決まり事は、
「4分・2冊以上・自分の好きな本を紹介する」
というもの。

いただく条件と共に、私は私の中で、マイテーマを考える。

今回のテーマは、文章を読むのが苦手で、本を読むのが苦手で、人前で話すのが苦手な子にとって、このブックトークの順番が回ってくることへの負担感をちょっとでも減らすこと。と、決めた。

・文字の少ない本を選ぶ。
・ゆっくりと自分の言葉で話す。

このくらいで良いのなら、話せる。
こんな本で良いのなら、選べる。
そう思ってもらえますように。

そして、私が好きな本をみなに届けることができますように。

選んだ本は、
・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』とその続編『ビッグ・オーとの出会い』
・俵万智の『サラダ記念日』
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欠けたところがあっていい、四角だったり三角だったりでこぼこしていていい
31文字の、特別じゃない日常の中にそっと身を置いているから見える世界がある

背伸びをしない等身大の「わたし」でいい。

そういうことが届けばいいなーと思ったわけですが。

自分の言葉でお話するのに仕込み過ぎないほうがいいと思い、伝えたいことは、最小限にしぼりこんだにもかかわらず、みなの前では更に言葉少なになってしまった。

『サラダ記念日』に至っては、ほぼ触れず。
短歌のたった31文字の少ない文字だけど、日常の手の届くくらい狭い中だけど、世界が際立ってみえる面白さがあることを、ひとっかけらも伝えずに終えてしまった・・・。

これならいっそ、『ぼくを探しに』も『サラダ記念日』も、朗読すれば良かったかもしれない。

トホホ。
時間を巻き戻せるのであれば、プレゼントしたかった二つの歌を残しておこう。

「これからの二カ月のこと何もかも思い出として始まる二月」(『サラダ記念日』)
(「これからの十二カ月のこと何もかも思い出として始まる四月」と、パクりたかった)

「まだ何も書かれていない予定表 なんでも書ける これから書ける」(『とれたての短歌です』)


次に機会があったら、またそのときどきのマイテーマに合わせて、
それに応じた本を選んでしまうと思うから、この備忘録的メモは役に立つことは無いかもしれない。


それでも、ブックトークってことだけじゃなくって、
読むのが苦手な子にとっても、本はあなたのためのものであり、図書館はあなたのための場所である。
そんな気持ちを忘れたくないので、書いておく。


そして、伝えたいことの半分しか言葉にできなかったけれど、それでも何かしら伝わったことがある。
話すことが下手でも、伝えることはできる。


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学校司書は、指導者ではない。
教員だったら、先生然とした「見本」「手本」を示すことを求められるかもしれない。
私はそこからは自由だ。

この人よりはマシ。オトナでもこの程度。
そういう姿を堂々と(?)示すことができるのは役得だなぁとつくづく思う。

もちろん、もしも仮に教員の立場に立つことがあったとしても、私はきっと、こういう示し方しかできないような気がするけれど。


by shiho_kato | 2018-04-25 18:15 | 私ノート | Comments(0)