7回目となる「
東京・学校スタンプラリー」
毎年、その機会を利用していろいろな図書館を見せていただいている。
今年は、参加校に加えていただき、ラリー先のひとつとしてみなさんをお迎えする側に立った。
初参加の手探りでもあり、1日限りで、3時間ばかりのとっても短い時間を設定して。
酷暑が続き、当日は図書委員さんの参加が少ない予定で、
暑い日の運営で具合の悪い生徒さんが出ませんように、
それが一番の気がかり。
二番目の気がかりは、誰も来なかったらどうしよう。
校内のコンセンサスを得て、実施にこぎつけるのに骨を折ってくださった先生方にも、
図書委員の生徒たちにも、がっかりされるような少なさだったらどうしよう。
三番目の気がかりは、逆に、思いのほかいっぱい来すぎちゃったらどうしよう。
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そうして迎えた当日。
29人の方々にいらしていただいた。
3時間で29人。
閑散とする間もなく、込み合い過ぎる時間も無く、とてもとてもちょうど良かった。
いらしていただいた図書館関係者の半数は、この7年間の間にお知り合いになった司書さんたち。
心もとなくも初参加へのチャレンジを、助けてくださった方々。
「やっと見に来ることができた」と言ってくださった初めていらっしゃる方々ばかりだった。
図書委員さんは、当日は倍の12人が手伝ってくれた。
WGBTの値が高く、部活が早く終わったり、面談の前の時間を使ったりして、
予定に無い時間に来て手伝いに入ってくれた。
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スタンプラリーに参加することにどんな意味があるのだろう。
参加している学校のお仲間に加えていただく、お仲間意識(ネットワークの促進とも言うがそれほどカッコよくない)の醸成以外に、図書館を開放することにどんな意味があるのだろう。
私は、どうして、こんなに参加したいと思い続けていたのだろう。
スタンプラリーの実施日が近づくにつれて、少しばかり緊張を高めながら、つらつらと考えた。
辿り着いたのは、人目にさらすことは、背筋を伸ばすこと。
「これが、うちの学校の図書館です」
そう、外部の方に説明しながら、見せたいもの、知らせたいことが絞れてくる。
際立たせたいものはいっそう際立ち、知らせなくていいものはこの機に無くしてしまう。
そういった緊張感が、時に必要なんじゃないのかなって思う。
ほめられることもあれば、力を入れたけれどスルーされることもあれば、
思いがけないことを見出してもらうこともあれば、至らぬことに気づかせてもらうこともある。
停滞や沈滞は、怖い。それに気づけないことが、何より怖いことだから。
実際に開催してみて、気づいた良かったことは、
(特に管理職や運営に携わる)先生方が、外部に見せるにたる図書館かどうかに思い巡らせてくださったこと。
図書委員の生徒さんたちにとっても、クイズやスタンプやしおりを作り、人を迎えることで、「うちの図書館」の気持ちになってくれたこと。
そして、後から先生に「今日、図書館ではスタンプラリーをやってる」ことを、図書委員さん以外の生徒たちも知っていたことを教えてもらった。彼らにとっても「うちの図書館」という単語で、この場を思い浮かべてくれていたならば嬉しい。
本来、実施の意義があり、意義を実現するために計画が発案され、実施に至るのだろうけれど、
私の中では「意義は発見される」ものであり、「発案時からある」ものではない、という逆転現象。
相変わらず、とんちんかんだなーーーと思うけれど、順序はいいや。
有意義だったに違いない実感が、ここにこうしてあるのだから。